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自分が人生何度目か考えてみた話。
子どもの頃よく言っていた言葉がある。
「はやく老後の人生歩みたいーーー」
小学校高学年から中学校にかけて言っていた言葉である。
子どもの頃から「人生の楽園」が好きだった。
「遠くへ行きたい」も好きだった。因みにテーマ曲も歌えた。
ませガキを通り越してよく分からないガキである。
心のどこかで「大人びている自分」を演じている部分もあったと思う。
でも、「何かやり遂げた人が幸せに暮らしている楽園」の素晴らしさや、「自分のことを誰も知らない土地に行くことがエモい(その当時エモいという言葉はなかった)」ということは何となくわかっていたと思う。
友達は「ポチたま」、私は「遠くへ行きたい」。
話が合うはずがない。でも側にいてくれた友人には感謝したい。
小さい頃から大人びている子供は、何度も魂が生まれ変わっている。
という話をどこかで見たか聞いた。
大人びている、とは。
私のようなませガキのことだろうか。
自分で言うのもなんだが、一応自分が”大人びていた子供”と仮定する。
だとしたら私は何度生まれ変わっているのだろう。
たとえば3度目だとする。
生まれ変わりの自覚がないにしても、
なんとなくこうすれば大丈夫そう。
こうしていれば怒られなさそう。
こっちを選んだ方がお得そう。
などなど直感力は生まれながらに身に着いていそうなものだ。
それなのに?
どうして?
大事な演奏のソロの場面で入れなかったり、
英語の授業中次の時間の数学テストの勉強をして怒られることがあったり、
こっちの方が早く目的地に着くと踏んだ道路で事故に遭遇する、
なんてことがあるんだろう。
その上、私は常日頃から「人生一度きりなんだから」という言葉を頻繁に使っている。
私はこう考えた。
魂はおんなじにしてもその元々の魂+α(プラスアルファ)で”わたし”という人格がついていると思われるが、この”わたし”が強すぎるのではないか。
だから
”わたし”が生きているうちに何でもやりたいし、
”わたし”が絶対死ぬまでに達成できそうにないことを思い浮かべて嘆いたりするんだと思う。(私は最近、生きている間に世界遺産全クリは難しいだろう、という事実に気づき空しくなった。別に病気などではない。)
多分私の生まれ持った魂が人生10回目ぐらいだったとしても、
そんなの関係ねえ、今生きている”わたし”がやりたいと思ったことならなんでもやるし。
むしろ自分の魂に対して”ズルい”なんて思ってしまうかもしれない。
とにかく、今後自分の魂が何度生まれ変わってもいいけど
”わたし”の人生は好きなように生きさせてくれよな。と思ったりした。
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