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副汐健宇の戯曲易珍道中⑥〜チェーホフ『かもめ』〜


おはようございますこんにちはこんばんは。

絶賛、滞り中の当ノートに指を運んで頂き、とても光栄に思います。

大好きな演劇にも、そして易経にも、より深く向き合う為に、無理くりに”戯曲易”シリーズを立ち上げた訳ですが、まさに、”陽爻陰位””中(ちゅう)に及ばぬ爻”・・・分不相応だったと今更、震(☳)の如く震えております💦

その一方で、ますます戯曲や易経、易占を愛する事が出来る自分にやがて出会えると云ふ仄かな楽しみも、坎(☵)の如く湧いております。

その坎が、コンコンと暖かに湧く湯水なのか、もしくは、コンコンと凍った水、なのか、それとも、ただの濁った水、なのか・・・・

と、前置きが相も変わらず無駄に長くなってしまいましたが・・・

今回、取り上げる戯曲は、

『かもめ・ワーニャ伯父さん』

        チェーホフ:著

        神西 清:訳   (新潮文庫)

より、『かもめ』です。

言わずと知れた、南ロシアの港町タガンローグで産声を上げた演劇界の大家、アントン・チェーホフの晩年の名作戯曲です。

(この時期に、ロシアを代表する劇作家の作品を選んだ事に対し、決して何の他意もありません。純粋に、取り上げたい作品だと思ったから以外にありません。その事は事前に心に留めて、御手隙の際に僅かでも目を通して頂いたら幸甚に思います。)

恋と名声に素直に憧れる女優志望のニーナと、芸術や文学を自身の手で更新しようと目論む野心家の青年トレープレフ、中年の流行作家トリゴーリンをメインに、嫉妬、世間に対する違和、流行に追われる事の虚無、が丹念に、長ゼリフの数々に粒立って散りばめられています。

結論から申し上げまして、一読して、私はこの大作を

「坎為水を巡る物語」

と、易経に引き寄せた際に、ただただ思いました。

 坎為水(かんいすい)

           ☵

           ☵

”重険”の卦。天険、人険、地険。

「習坎(しゅうかん)は孚(まこと)あり。維(こ)れ心亨る。行けば尚(たっと)ぶことあり。」

坎は、陥・・・落とし穴。重卦。落とし穴が二つ。絶え間ない洪水。絶え間ない悩み。一難去ってまた一難。毒舌。

そう思った根拠はもちろんあります。いきなり第二幕に飛んでしまいますが、下記の二幕のトリゴーリンとニーナの会話に寄ります。個人的には、このセリフから、物語が大きな水のウネリを見せる。おぼろげなテーマが浮き立つ。そして、ここから、”かもめ”が息を吹き返して飛び立つ仕草を見せる、と思っています。  

■第二幕
59〜61ページより引用

トリゴーリン べつにいいところもありませんねええ。(時計を出して見る)わたしは、これから行って書かなければならん。ま赦してください、暇がないんです。・・・(省略)
強迫観念というものがありますね。人がたとえば月なら月なら月のことを、夜も昼ものべつ考えていると、それになるのだが、わたしにもそんな月があるんです。夜も昼も、一つの考えが、しつこく私にとっついて離れない。それは、書かなくちゃならん、書かなくちゃ、書かなくちゃ・・・・・・というやつです。やっと小説を一つ書きあげたかと思うと、なぜか知らんがすぐもう次のに掛からなければならん、それから三つ目、三つ目のお次は四つ目・・・・・・といった具合。まるで駅逓みたいに、のべつ書きどおしで、ほかに打つ手がない。そのどこがすばらしいか、明るいか、ひとつ伺いたいものだ。いやはや、野蛮きわまる生活ですよ! (省略)
ほらあすこに、グランド・ピアノみたいな恰好の雲が見える。すると、こいつは一つの小説のどこかで使ってやらなくちゃ、と考える。グランド・ピアノのような雲がうかんでいた、とね。 (省略)
こりゃ使えるかもしれんぞ! というわけ。一仕事すますと、芝居なり釣りなりに逃げだす。そこでほっと一息ついて、忘我の境にひたれるかと思うと、どっこい、そうはいかない。頭のなかには、すでに新しい題材という重たい鉄のタマがころげ回って、早く机へもどれと呼んでいる。そこでまたぞろ、大急ぎで書きまくることになる。いつも、しょっちゅうこんなふうで、われとわが身に責め立てられて、心のやすまるひまもない。自分の命を、ぼりぼり食っているような気持ちです。(省略)

63ページより引用

ニーナ でもちょっと。わたし、そんなお話は頂きかねますわ。あなたは、成功に甘えてらっしゃるんだわ。

トリゴーリン どんな成功にね? わたしはついぞ、自分でいいと思ったことはありませんよ。わたしは作家としての自分が好きじゃない。何よりも悪いことに、わたしは頭がもやもやしていて、自分で何を書いているのかわからないんです。(省略)

上記のやり取りを、特にトリゴーリンの独白に注視しながら、無理に六十四卦に当てはめますと、

         坎為水の六三

            ☵

            ☵

「象に曰く、来(きた)るも之くも坎々たり、終に功なきなり。」

六三(三爻)は、天人地、ですと、人の位置にあります。また、坎為水の六三は、大きな離(☲)の中にいる。どんな事象も小説の題材になるとのひらめきを要求され、燈火(☲)のように明らかに見つけても、絶えずそれが続く、また、六三は、”陽爻陰位”、本来、陽であるべきなのに陰、湯水のようにアイデアやテーマが浮かぶ訳では無いのに、それを無理に搾り取って、虚無(☲=中身が陰で空虚)に襲われている。しかし、それを止められない。どんなにアイデアがひらめいてもそれが喜びに変換されるのは一瞬で、全体では、深く絶え間ない苦悩(坎為水)の中にいる、という所でしょうか。

坎為水では無く、乾(☰)を二つ重ねた”乾為天”の方が適しているのでは無いか、とも一瞬思いましたが、トリゴーリンの場合、小説家であり、あくまでも、思考活動、頭脳活動の範囲内であり、肉体までは絶え間なく激しく動く、という訳では無いので、やはり、坎為水の、六三、がふさわしいと思いました。


また、当作品を、坎為水を巡る物語と思ったのは、第一幕の冒頭、まさに始まりの始まりのシーンでも、今後を匂わせる描写として、そう感じた次第です。教員であるメドヴェージェンコと、退職中尉の娘マーシャの何気ない会話によります。

■第一幕

9ページより引用

メドヴェージェンコ あなたは、いつ見ても黒い服ですね。どういうわけです?

マーシャ わが人生の喪服なの。あたし、不仕合せな女ですもの。

・・・水行である、坎を象徴する色は、黒、です・・・。

やはり、本作は、坎為水が分析の上で大きな軸となって来る事は、かなり無理くりですが、間違いないようです。勝手にラストへ向かう伏線と思ったぐらいです・・・。


■第三幕
78ページより引用

※トレ―プレフの母親であり女優であるアルカージナと、トリ―プレフの、トリゴーリンを巡る口論に似た会話。

アルカージナ お前は、あの人がわからないんだよ。えコンスタンチン。その人は、人格の高いりっぱな人ですよ・・・・・・

トレープレフ ところが、僕が決闘を申しこもうとしている人から聞くと、人格者たちまち変じて卑怯者になっちまったってね。いよいよ発つんでしょう。見ぐるしい脱走だ!

79ページより引用

アルカージナ それが妬みというものよ。才能のないくせに野心ばかりある人にゃ、ほんものの天才をこきおろすほかに道はないからね。結構なお慰みですよ・・・・・・

トレ―プレフ (皮肉に)ほんものの天才か! (憤然として)こうなったらもう言っちまうが、僕の才能は、あんたがたの誰よりも上なんだ! (頭の包帯をむしりとる)あんたがた古い殻をかぶった連中が、芸術の王座にのしあがって、自分たちのすることだけが正しい、本物だと極めこんで、あとのものを迫害し窒息させるんだ! そんなもの、誰が認めてやるもんか! 断じて認めないぞ、あんたも、あいつも!

アルカージナ デカダン・・・・・・

非常に熱を帯びた会話の応酬な訳ですが、最後のDECADENT(デカダン)というセリフを軸に、母親の視点から息子の心理を眺めてこの場面を六十四卦に当てはめますと

     山地剥(さんちはく)の上九

            ☶

            ☷

「上九は、おおいなる果(このみ)にして食われず。君子は輿(よ)を得、小人は盧(ろ)を剥す。」

上九は、”陽爻陰位”、陰になり謙虚にならなければならない位置。確かな名声の実感も無く、ただただ己の力を過信して、陰に持ち上げられた不安定な位置に、トレ―プレフは立っている。孤高で孤立の位置が上九。すぐにそれが砂(☷)のお城で脆くも崩れ落ち、退廃(DECADENT)に落ちてしまう予感を振り切るように・・・。

(頭の包帯をむしりとる)という、包帯を”剥がす”という行為が、まさに山地剥の象徴。チェーホフは易経に通じていたのか!と個人的に膝を打ってしまいました!(そんな訳はありませんが💦) 

83ページより引用

※トリゴーリン、女優であるアルカージナのプライドもお構いなしに、少女であるニーナに熱を上げている事を素直に告白し始める。

トリゴーリン どうしても惹きつけられるんだ! ひょっとすると、これこそ僕の求めていたものかも知れない。

アルカージナ たかが田舎娘の愛がね? あなたはなんて自分を知らないんでしょうね!

トリゴーリン 時どき人間は、歩きながら眠ることがある。まさにそのとおりこの僕も、こうして君と話をしていながら、じつはうとうとして、あの子の夢を見ているようなものだ。・・・・・・(省略)

・・・実は、第三幕が開いてすぐ(68ページ〜69ページ)に、豆を握って、その数が奇数であるか偶数であるかをトリゴーリンに答えさせています。「偶数」と答えた彼むなしく、豆は一つしか握っていませんでした。それをニーナは、”女優になれるかどうかを占った”とため息をついて言っています。・・・そんな彼女を、トリゴーリンは励ます訳ですが、二人の仲を縮めるキッカケが、占い、というのは、曲がりなりにもこういった自己満足な文章に溺れている私、そして「占い師はインチキ」という某タレントの何気無い言葉に揺らいでしまう日和まくりな私にとって、すぐにでも縋りたいワラ以外の何物でもありません。

・・・と、アルカージナの存在を無視するかのように、無垢な熱を披露する中年の流行作家。そんな彼を無理やりに六十四卦に当てはめますと・・・・・・

            沢雷随(たくらいずい)の初九

                 ☱

                 ☳

「初九は、官渝(かわ)ることあり。貞なれば吉。門を出でて交わるに功あり。」

 単純に内卦と外卦を分けて見ますと、初老の男性(☳)が、若い女性(☱)のお尻を追いかけている、と読めます。

若い女性が初老の男性のお尻を追いかける、という意味合いの色濃い

雷沢帰妹(☳☱)とは逆になっています。

内卦の震(☳)は、想いに身を任せてまっすぐに向かう、という意味合いもあり、しかも、一番下の初爻(初九)は、震を一番震たらしめている、主役の爻、なので、その意味合いが一気に高まり、熱にうかされて、ニーナしか見えないトリゴーリンをそのまままっすぐに表した状態だと言えるでしょう。”門を出でて交わるに功あり”

もちろん恋愛感情や性的魅力に惑わされている感もありますが、今まで自身とは縁の無い存在だった”少女”とのご縁が結ばれた事により、新しい世界を見つめ、それを小説にも生かす事が出来る、という打算的なひらめきも直感で疼いたに違いありません。実際、沢雷随を今一度丹念に眺めてみますと、初爻から四爻にかけて、大きな離(☲)を作り出しています。


■第四幕

95ページより引用

※教員であるメドヴェージェンコと結婚し、出産したマーシャが、恋愛や結婚の現実を思い知って、吐露する。

マーシャ みんな、ばかげたことよ。望みなき恋なんて、小説にあるだけだわ。くだらない。ただ、よせばいいのよ――甘ったれた気持になって、待てば海路の日和だかなんだか、ぽかんと何かを待っている、そんな態度をね。・・・・・・(省略)

上記のセリフを六十四卦に無理に当てはめますと、

         沢風大過(たくふうたいか)の九四

                ☱

                ☴

”大過は棟(むなぎ)撓(たわ)む。往く攸(ところ)有るに利(よ)ろし。亨る。”

九四は

「象に曰く、棟隆きの吉なるは、下に撓まざればなり。」

沢風大過は、中央部(二爻~五爻)に陽爻が集まっている様子から、一本の枝に例えられ、陽が中央に集まる事で、今にも折れそうな様子を表した卦です。また、”大過”という名から、良いタイミングが多いに過ぎる、とも読めます。また、俯瞰してこの卦を眺めますと、大きな坎(☵)を表しているようにも見えます。

マーシャ自身、様々な現実に直面し、優雅な生活がままならなくなった。それに立ち向かう為に、理想や妄想、そして、物語を否定するしかない、と思い始めている(それにはまだ至っていない→及んでいない→四爻)様子が窺えます。また。大きな坎、であるので、一気に大きく毒舌を吐く、とも見えます。マーシャの、これからの海路(☵)の日和があたたかく澄んだものである事を願わずにはいられません・・・。  

100〜101ページより引用

※トレ―プレフに親しい医師のドールンが、今まで出向いた海外の街の中で一番良かったと断じた街、ジェノアについて説明する場面。

ドールン あすこの街を歩いている群衆がすてきなんです。夕方、ホテルを出てみると、街いっぱい人波で埋まっている。その群衆にまじりこんで、なんとなくあちらこちらとふらついて、彼らと生活を共にし、彼らと心理的に融け合ううちに、まさしく世界に遍在する一つの霊魂といったものが、あり得ると信じるようになってきますね。


上記の卦を六十四卦に当てはめますと

             沢地萃(たくちすい)の六ニ

                  ☱

                  ☷

が妥当かと思います。内卦が大地(坤=☷)、外卦が止水(兌=☱)。水が一点に集まり、その潤沢さに人々が和やかに賑わいを見せて行く様子を表した卦です。また、沢地萃も、大きな坎(☵)のような形をも見せていて、”潤い”が大きなキーワードになっています。坎為水の静かな忙しなさに辟易している作家のトリゴーリンに比べて、ドールンは、そこから適度に距離を置く事に成功しています。しかも、二爻なので、ご自身を決して高みに上げる事をせず、謙虚に羨望の眼差しで群衆を眺めている彼が目に浮かぶようです。

沢地萃の六ニ(二爻)の爻辞は、

「象に曰く、引けば吉にして咎なきは、中(ちゅう)いまだ変ぜざればなり。」

陰柔に自身の中庸を守って、群れの中にはまりこんでいる・・・

やはり、本作品が、”水”を巡る物語である事を思わずにはいられません。


110ページより引用

トリゴーリン あの人はどうしても運が向かない。未だに、ほんとの調子が出ないんですな。何かこう変てこで、あいまいで、時によるとウワ言みたいなところさえある。

・・・上記は、トリゴーリンの、ストレートなトリ―プレフ評です。

六十四卦を無理に当てはめますと

         水雷屯(すいらいちゅん)の初九

              ☵

              ☳

と、思います。

「初九は、磐桓(はんかん)す。貞に居るに利あり。候(きみ)を建つるに利あり。」

磐桓とは、進みにくくて躊躇する様、を表します。トリゴーリンの目からは、まだ、トリ―プレフは、本当の”水”を飲み干していない。無意識に”水”に溺れる事を躊躇して右往左往している、としか思えないのではないでしょうか。

また、水雷屯の綜卦は、山水蒙(さんすいもう)

              ☶

              ☵

と、なります。やはり、トリゴーリンにとって、トリ―プレフの芸術に対する足掻きは、単なる”童蒙”にしか映っていないのではないでしょうか。


111ページより引用


トリゴーリン わたしがもし、こんな湖畔の屋敷に住んだとしたら、とても物を書く気にはなりますまいな。そんな欲望はうっちゃりにして、魚ばかり釣ってるでしょうよ。

(省略)

ドールン しかし僕は、トリ―プレフ君を信じていますよ。何かがある! 何かがね! あの人はイメージでもって思索する。だから小説が絵画的で、鮮明で、僕は強烈な感じを受けますね。ただ惜しむらくは、あの人には、はっきりきまった問題がない。印象を生みはするが、それ以上に出ない。

・・・今度は、ドールンのトリ―プレフに対する評価です。初老作家よりは、彼を信頼し、期待を僅かでも寄せている様子が窺えます。この会話を、無理に六十四卦に当てはめますと、

         地火明夷(ちかめいい)の九三

               ☷

               ☲

が妥当かと思います。

「象に曰く、南にこれを狩る、志し乃(すなわ)ち大いに得るなり。」

絵画的、強烈、というキーワードも出ていたので、山火賁や雷天大壮等、華やかさ、激しさを訴えかけて来る卦もふさわしいのではと考えましたが、ドールンは、トリゴーリンのトレ―プレフ評を全否定している訳では無く、むしろ、彼の悶々と模索している、という評価には共鳴しているように思えます。

なので、”太陽が地下に隠れている。陽の目を見にくい”という意味合いの強いこちらの卦を採用しました。

三爻は、坎(☵)の主爻になっている、とも読めます。また、三爻は、完全な引きこもり状態では無く、天、人、地の人の部分、自身と他者の違いに向き合い始める部分でもあります。ドールンがもし易経に嗜んでいたら、地火明夷の九三を想いながら、もう一歩、大地に踏み出して、地に足をしっかりつけて、決まりきった問題を探って欲しい!と願ったに違いないのです・・・。

 

114ページより引用

トレープレフ (書きつづけようとして、今まで書いたところに目を走らせる)おれは口ぐせみたいに、新形式、新形式と言ってきたが、今じゃそろそろ自分が、古い型へ落ち込んでゆくような気がする。 (省略)
トリゴーリンは、ちゃんと手が決まっているから、楽なもんだ。・・・・・・あいつなら、土手の上に割れた瓶のくびがきらきらして、水車の影が黒く落ちている――それでもう月夜が出来あがってしまう。ところがおれは、ふるえがちの光だとか、静かな星のまたたきだとか、しんとした匂やかな空気のなかに消えてゆくピアノの遠音だとか・・・・・・いや、こいつは堪らん。(間)そう、おれはだんだん分かりかけてきたが、問題は形式が古いの新しいのということじゃなくて、形式なんか念頭におかずに人間が書く、それなんだ。魂のなかから自由に流れ出すからこそ書く、ということなんだ。

・・・思索を机上でこねくり回しているうちに、ハッと何かが浮かんで来たトレ―プレフ。そんなこちらの彼を無理に六十四卦に当てはめますと・・・

          地雷復(ちらいふく)の初九

                ☷

                ☳

が妥当かと思われます。

”一陽来復””

陽が再び初爻に復する卦、です。

その意味から、もちろん、”初心に返る”という言葉も導き出されるでしょう。トリゴーリンに対する遠吠えにも似た毒舌は相変わらずですが、形式云々に捕らわれず、ありのままの人間が書く、これで良いんだ。という事に築けたのは、作家としての彼の足場(初爻)がようやく整い始めた兆しと断じても過言では無いのではないでしょうか。例えそれが束の間だったとしても・・・。

118ページより引用

※トレ―プレフ、愛するニーナとの刹那の逢瀬の場面

ニーナ この一冬、契約をしたの。もう帰らなければ。

トレ―プレフ ニーナ、僕は君を呪いもし憎みもして、君の写真や手紙を破いてしまった。それでいて、僕の心は永久に君と結びついていると、毎分毎秒、意識していました。あなたへの恋が冷めるなんて、僕にはできないことだ、ニーナ。あなたというものを失い、作品がぼつぼつ雑誌に載りだしてからこっち、人生は僕にとって堪えがたいものになった――受難の道になった。・・・・・・自分の若さが急につみとられて、僕はこの世にもう九十年も生きてきたような気がします。僕はあなたの名を呼んだり、あなたの歩いた地面に接吻したりしている。どこを向いても、きっとあなたの顔が見えるんだ。ぼくの生涯の一ばん楽しかった時代を照らしてくれた、あの優しい微笑みがね。・・・・・・

・・・いかにも名作戯曲!といったような壮大なレトリックを持ったセリフの応酬ですが、こちらの場面を無理に六十四卦に当てはめますと・・・

            沢山咸(たくざんかん)の九四

                 ☱

                 ☶

が妥当かと思います。

「九四は、貞(ただ)しければ吉にして悔亡ぶ。憧々(しょうしょう)として往来すれば、朋爾(なんじ)の思いに従う。」

沢山咸は、若い男(☶)と若い女(☱)が感応し合っている卦で、恋愛を占う時にこの卦が出たら、とても希望に溢れている、と言われています。

しかし、一方で、沢山咸は、坤中包乾卦、つまり、坤(☷)が乾(☰)を包んでいる卦でもあります。しかも四爻は、その乾(☰)の主爻たり得ています。傍から見たら穏やか(☷)な関係性を保っているようでも、心の中は激しい感情(☰)が渦巻いているトレ―プレフの全面的な切なさが伝わって来ます。しかも、沢山咸は、やはり、大きな坎(☵)のような形になっています。

一方のニーナは、沢山咸の綜卦を観ると

            雷風恒(らいふうこう)

               ☳

               ☴

”恒常を保つ卦”・・・現状維持。それ以上の展開を望んではいない。ニーナなりに苦悩はしている(雷風恒も大きな坎にも見えます)ものの、トレ―プレフの元に戻る気は皆無に等しいのです・・・。

・・・トレ―プレフは、ニーナに、ニーナを想って彼女の歩いた地面に接吻している、とまで強烈に伝えています。四爻は、初爻と対応関係です。初爻は地面を表します・・・。彼の接吻した地面は、渇いていたのか潤っていたのか・・・・

119ページより引用

 ニーナは手早く帽子と長外套を着ける。

トレープレフ どうして君は、ええニーナ? 後生だ、ニーナ・・・・・・(彼女が身じたくするのを眺める。間)

ニーナ 馬車が裏木戸のところに待たせてあるの。送ってこないで、わたし一人で行けるから・・・・・・(涙声で)水をちょうだいな・・・・・・

トレープレフ (コップの水を与える)今からどこへ行くの?

ニーナ 街へ。(省略)

上記の卦(か)を、無理に六十四卦に当てはめますと、

        地水師(ちすいし)の九二

              ☷

              ☵

と、解釈しました。

大地(☷)の下に、僅かに水(☵)が流れている。僅かな思索を内に溜め込む・・・。

「師は貞(てい)。丈人なれば、吉、咎なし。」

「九二は、師中(しちゅう)にあり。吉にして咎なし。王三たび命を錫(たま)う。」

・・・上昇する天(☰)と下降する水(☵)で、価値観が合わない”天水違行”を表す、天水訟(☰☵)の方がふさわしいのではとも思いましたが、トレ―プレフの切実な視点から見た場合、相手(外卦)のニーナに快活な動き(☰)は無く、落ち着いた母性(☷)のような、地に足の着いた輝きを誇っているように思えます。その”地に足の着いた”が、ニーナと結ばれない事実よりも、何よりトレ―プレフの薄い胸に迫ったに違い無いのです。それを易で占うまでも無く作家なりの感性で予感し、トレ―プレフは、そんな大地(☷)に接吻を重ねていたのではないでしょうか?

・・・一般的に、爻辞の”吉にして咎なし”にもあるように、地水師の九二(二爻)は、大吉であるとされています。

しかし、当のトリ―プレフは、その地水師に注がれた、僅かな”コップの水”を、愛するニーナに明け渡してしまった・・・。

自身の思索(☵)を明け渡してしまった・・・。

物語は確実にクライマックスに突入して行きます。


119〜122ページより引用

ニーナ わたしの歩いた地面に接吻しただなんて、なぜあんなことをおっしゃるの? (省略)
わたしは――かもめ。・・・・・・いえ、そうじゃない。わたしは――女優。そ、そうよ! (省略)
・・・・・・わたしはもう、本物の女優なの。・・・・・・わたしは楽しく、喜び勇んで役を演じて、舞台に出ると酔ったみたいになって、自分はすばらしいと感じるの。(省略)
考えながら、わたしの精神力が日ましに伸びてゆくのを感じるの。・・・・・・今じゃ、コースチャ(※トリ―プレフの別称)、舞台に立つにしろ物を書くにしろ同じこと。わたしたちの仕事で大事なものは、名声とか光栄とか、わたしが空想していたものではなくって、じつは忍耐力だということが、わたしにはわかったの、得心が行ったの。おのれの十字架を負うすべを知り、ただ信ぜよ――だわ。わたしは信じているから、そう辛いこともないし、自分の使命を思うと、人生もこわくないわ。

トレープレフ (悲しそうに)君は自分の道を発見して、ちゃんと行く先を知っている。だが僕は相変わらず、妄想と幻影の混沌のなかをふらついて、一体それが誰に、なんのために必要なのかわからずにいる。僕は信念がもてず、何が自分の使命かということも、知らずにいるのだ。

・・・上記のやり取りを無理に六十四卦に当てはめますと、

         坤為地(こんいち)の六ニ

              ☷

              ☷

と、思います。

  「象に曰く、六ニの動は、直(ちょく)にして方(ほう)なり。習わざれども利あらざるなきは、地道光(おお)いなればなり。」

    坤為地の六ニ(二爻)は、地水師の九二、の之卦、になります。

僅かに残っていた思索(☵)をコップに注いでニーナに渡し、自身は空になって大地(☷)に接吻する。”地に足をつけて(☷)、忍耐を受け入れた(☷)”ニーナを、置き去りにして。いや、もしくは、ニーナが彼を置き去りにしたのでしょうか・・・。

そして、中庸(坤為地の二爻は中の位置で、陰爻陰位)を取り戻し、

土(☷)に還り、土、そのものになる・・・。

       

―省略―

ニーナ (省略)・・・・・・トリゴーリンに会っても、なんにも言わないでね。・・・・・・わたし、あの人が好き。前よりももっと愛しているくらい。(省略)
もとはよかったわねえ、コースチャ! なんという晴れやかな、暖かい、よろこばしい、清らかな生活だったでしょう。なんという感情だったでしょう。 (省略)
(暗誦する)「人も、ライオンも、鷲も、雷鳥も、角を生やした鹿も、鵞鳥も、蜘蛛も、水に棲む無言の魚も、海に棲むヒトデも、人の眼に見えなかった微生物も、――つまりは一切の生き物、生きとし生けるものは、悲しい循環(めぐり)をおえて、消え失せた。・・・・・・もう何千世紀というもの、地球は一つとして生き物を乗せず、あの哀れな月だけが、むなしく灯火(あかり)をともしている。今は牧場に、寝ざめの鶴の啼く音も絶えた。菩提樹の林に、こがね虫の音ずれもない。」・・・・・・(発作的にトレープレフを抱いて、ガラス戸から走り出る)

敢えて、上記のニーナのセリフを無理に六十四卦に当てはめる事はしません。周易を、易経を少しでも嗜んだ方なら、あの卦もこの卦も浮かびあがるでしょう。是非、それぞれで溢れんばかりの思索をこねくりまわし、あなた様なりの分析を紡いで行って頂けたらと願うばかりです。

・・・それにしましても、爻辞や卦辞は多少参考にしましたが、今までも今回も、それ程『易経』にガチガチに添って六十四卦を当てはめた訳ではありません。それでも、これだけの思索が生まれて行く。

『易経』も、そしてあらゆる名作戯曲も、向き合おうとする人を決して選ばず、大らかにその門を開いてくれている事実が改めて見えて来て、胸躍り、ますます易を嗜もうという意欲が地雷復(☷☳)ばりに芽生え、また、あらゆる戯曲も、もっと読み込んで行こうという決意も芽生えています。

ほぼ、私のマスター○―ションに近いこちらのシリーズですが、少しでも触れた方が、『易経』や演劇、戯曲に対する関心を芽生えて下さいますように。

・・・昨今、余りにも長くなり過ぎてしまい💦 次回から、少しやり方を変えようかとも思っています。その事に関して、易を立ててみようと言いましたら、易の神様は怒るでしょうか?

また、近いうちに必ずお会いしましょう。

最後まで拙き駄文(引用した戯曲以外で!)にお付き合い頂き、誠にありがとうございました!

あなた様がより素敵に澄んだ思索に巡り会え、かもめの如くご飛躍出来ますように。

ご意見ご指摘ご提案、ご遠慮無くいつでもお待ちしております!

                   令和四年 四月二十八日

                曲がりなりにも東洋占術家

                      副汐 健宇

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