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アグネス・チャンのデビュー〜BSフジ「HIT SONG MAKERS〜昭和のアイドル誕生の秘密を探る」(その2)

(承前)

番組にアグネス・チャンが登場した。1972年“ひなげしの花“でデビュー、以降数年間はテレビで見ない日はない存在だった。私は、アグネスのファンではなかったが、彼女は常にいた気がする。その理由の一つには、楽曲の魅力もあったのではないか。

当時のことを、番組は伝える。アグネス・チャンは、香港でフォーク歌手として既にデビューしていた。そんな中、香港を訪れた平尾昌晃は、アグネスの姉の知己で、その紹介でアグネスを見出し来日をオファーする。アグネスからすると、日本はすべてが進んでいる憧れの国で、「万博やったんですよ!月の石が来た国だったんですよ!」と、当時を振り返る。

デビュー曲、“ひなげしの花“は、森田公一の作曲だが、アグネス曰く、全曲を通じて最も高い音が最初に登場するという、非常に難しく不思議な曲だった。さらに、“♫おっかのうえ〜“と唄うことに対し、由紀さおりが「アグネス、知ってる? “おかのうえ“よ」と、言ってくれたが、アグネスは「中華風ですか? 意味がか分からない」。しかし、これが彼女の代名詞のようになり、曲もヒットする。

ただ、アーチストとしてのキャリアを歩もうとしていた彼女にとって、ミニスカートをはいて、“アイドル“的に唄うのは本意ではなかったのだろう。

番組で、アグネスをプロモートした木崎ディレクターが、「アメリカのポップソング的に売り出そうとした」と語っている。しかし、アグネスは、「“ひなげしの花“がフォークソングに聞こえますか?」と主張、木崎が当初から“アイドル“的に売り出そうとしていたと語る。

一方で、木崎は、平尾昌晃の怒りを買う。平尾としては、自分が見出してきた歌手なのだから、最初は自分にオファーするのが筋だと。念のため説明しておくと、平尾昌晃は元は歌手で、1950年代後半“ロカビリー三人男“として一世を風靡する。その後、作曲家としても成功、アグネスのデビューの前年、1971年には、五木ひろし「よこはま・たそがれ」、小柳ルミ子「私の城下町」でヒットを飛ばしていた。

こうした背景の下、平尾が作り、木崎の差金で、繰り返しを強調しアレンジしたのが、3枚目のシングル“草原の輝き“で、アグネスはレコード大賞新人賞を受賞する。

当時の自身や歌手仲間を振り返り、アグネスは、「当時は、歌唱力あるなし関係なくステージに立っていた。そして、レコーディングで声を直すこともなく、番組でも生で歌わされた。結果、みな下手と言われながらも、結構上手かった。ベストコンディションで毎日歌い、夜の11時からラジオ、終わったらレコーディング、深夜3時に雑誌「明星」の撮影。そして、朝になったら学校にも通った」。

こうして、“アイドル“としてのキャリアを歩むアグネス・チャンだが、1974年、名曲を生み出す。それは、日本の歌謡界に新しく台頭してきた才能とのコラボレーションだった。

明日に続く



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