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1984年の萩尾望都〜世界が広がるターニング・ポイント(その1)

萩尾望都作品を年代順に読み進める“萩尾望都クエスト“。(過去の関連記事はこちら  )最近、1984年の作品群(掲載雑誌発行年ベース)を読みました

1984年は、私にとってターニング・ポイントと言って良い年です。大学を卒業し、社会人になった年であり、マンガとの付き合いにおいても、徐々に距離を置き始めていたころので、この萩尾望都の作品群についてもリアルタイムで読んでいないのです。

今回、再読作品も含め、改めてこの年に発表された作品を読んで、彼女の世界がさらに広がる萌芽を感じて、少しまとめてみようと考えました。

ファンの方が作られている労作、「萩尾望都作品目録」を見ると、1984年の萩尾望都のはこう見えます。

1980年代に入り、萩尾望都は「トーマの心臓」の番外編、「訪問者」を発表しその存在感を改めて世に示します。掲載誌は、小学館が新しく発刊した「プチフラワー」で、私も「訪問者」を読むべく創刊号を買ったことをよく覚えています。

当時の少女マンガ雑誌の状況は、大島弓子・山岸涼子らが傑作を連発する白泉社「LaLa」が、私のようないわゆる“マンガおたく“の支持を得ていました。

小学館から枝分かれしたのが集英社、さらに集英社から生まれたのが白泉社なので、同根なのですが、萩尾望都が主戦場としていたのは小学館の「週刊少女コミック」「別冊少女コミック」。これらの雑誌と萩尾望都を求める読者層が乖離し、小学館としても“おたく“の受け皿雑誌「プチフラワー」を創刊したのではないでしょうか。

そして、この「プチフラワー」の存在が、80年代の萩尾望都の創作活動を後押ししたように見えます。「プチフラワー」は季刊から隔月刊となり、そして1984年に月刊となり、この年の12ヶ月中9度、萩尾作品が誌上に掲載されます。

私が、“萩尾望都クエスト“を思いついたきっかけは、2018年に上梓された萩尾望都著「私の少女マンガ講義」です。イタリアの大学等における、少女マンガの歴史についての講義録に始まり、自作解説を含む非常に面白い一冊です。

この本を読み返すと、<八十年代の変化にはとても助けれらました>と書かれ、山岸涼子「日出処の天子」、大島弓子「綿の国星」もあり、<それまでになかったユニークな作品が描かれるようになりました>と語られてます。

こうした環境の中で登場した雑誌が「プチフラワー」で、小学館の山本編集長から<「読者の年齢層をちょっと上げた本を作ろうと思うんだ」 >と言われた萩尾さんは、<四年おきくらいに休みたくなって、旅行に行ったりしていた>のだが、上記の「訪問者」を描きます。

萩尾さんは、<このマンガ誌(プチフラワー)のおかげで 、私の作家としての年の取りかたと読書の年齢層がうまくシンクロできたので、とても助かったという気持ちがあります>と書いています。

萩尾のさんの言葉によって補強されている通り、彼女の80年代は発表プラットフォームの確立にサポートされました。小説にしてもマンガにしても、発表の場としての雑誌と作者を支える編集者の存在が重要なのです。そして、萩尾と「プチフラワー」のコラボレーションが本格的に開花するのが1984年、だから“1984年の萩尾望都“です。

なお、萩尾望都は2016年に「ポーの一族」を再開しました。掲載雑誌は、「プチフラワー」の後継雑誌、「月刊flowers」です

前おきが長くなりました。1984年、萩尾望都はどのような作品を世に出したのでしょうか。
明日に続きます


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