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40年ぶりの「蒲田行進曲」〜完結編『銀ちゃんが逝く』(その3)

(承前)

例によって、前置きが長くなってしまった。

昨年、紀伊國屋ホール改修前の最終公演として、「熱海殺人事件」が再演された。久方ぶりに紀伊國屋ホールで芝居を観たのだが、主演の味方良介石田明(Non Style)らが好演した。あれがなかったら、私の中では“完結“していた「蒲田行進曲」を40年ぶりに観に行くことはなかっただろう。

「蒲田行進曲完結編『銀ちゃんが逝く』」は1994年に初演されたようだ。サブタイトルから、ヤスの「階段落ち」の後、銀ちゃんが死ぬまでを描くことは容易に想像できる。

舞台の幕が開くと、ヤスを演じる石田明(Non Style)が、銀ちゃんが死んだことを語る。そして、「蒲田行進曲」が始まる。

簡単に言うと、「完結編」はオリジナル版をギュッと縮め、そのクライマックスのヤスの「階段落ち」芝居の中場に持ってくる。そして、後半は銀ちゃん自身による「階段落ち」となる。

私にとっての「蒲田」はやはり前半である。死ぬ可能性もある、悪くても半身不随となる「階段落ち」を目前に控え、ヤスと小夏と二人で応酬する。“オリジナル“でもハイライトだったシーンを、石田明、小夏には元乃木坂46の北野日奈子が再現する。二人の熱演に私は涙した。

しかし、「完結編」はこれでは終わらない。ヤスが支配する舞台を、銀ちゃんが取り戻りしていくのである。小夏はヤスと結婚するが、生まれてきた娘の本当の父親は銀ちゃん。その贖罪のためにも、銀ちゃんは「階段落ち」へと向かうのである。ちょっと待ってくれ、銀ちゃんは自分勝手で、人の迷惑など顧みず、自分のやりたいように生きて行く。それが魅力的なのではないのか。

「蒲田行進曲」は、前述の通り、つか「三部作」の中の唯一の新作としてタイトルが先行した。再演で、つかは「銀ちゃんのこと」とした。小説版も当初は「銀ちゃんのこと」と題されたが、結局は商業的な理由もあり「蒲田行進曲」となった。映画のタイトルも同様である。

実際、オリジナル版を観る、あるいは今回の「完結編」の前半を観ると、この芝居は「ヤスのはなしである」ように感じる。ここにつかこうへいは、大いなる抵抗感があったのではないかと思う。

長谷川康夫の「つかこうへい正伝」は、オリジナル版が最終公演として上演される1982年で終わっている。したがって、その後の「蒲田」の変化はこの本では分からない。

しかし、こういう箇所がある。「蒲田行進曲」の構造を、<つかの国籍問題と絡め、「虐げる側と虐げられる側の関係が……」などと、解説する人間がいる>。直木賞受賞を機に、つかは在日韓国人であることを公表している。

<つまり銀ちゃんが「虐げる側」で、ヤスが「虐げられる側」ということなのか。だがその関係性はむしろ逆なのだ>。銀ちゃんのヤスへの振る舞いは、銀ちゃんのコンプレックスの裏返しであり、ヤスをいたぶればいたぶるほど、それは銀四郎自身を責めることになるのである。

本稿の“その1“で書いた通り、銀ちゃんはつかこうへいの分身である。この芝居は、彼のナルシシズムの発露でもある、いやあったはずである。しかし、「銀ちゃんのこと」は作者の思いの通りには成長せず、変質する。小夏役の根岸季衣曰く、<「つかさんはどうしても、小夏の気持ちを、銀ちゃんのほうに行かせたいのよね」>。根岸はそれをうまくかわし、長谷川の言葉を借りると、<芝居を自分の側に引き寄せたのである>。

「蒲田行進曲」は、柄本明・加藤健一・根岸季衣・風間杜夫・平田満という才能の、奇跡のようなコラボレーションによって、一人歩きする。これに松坂慶子を加えても良い。つかこうへいは、「俺の描きたかったのはそうじゃないんだ、『銀ちゃんのこと』、俺のこと、俺が主人公なんだ」と心の中で叫んでいたのではないか。

そして、時を待ち、役者も変え、作品を“自分の側に引き寄せた“。演出の岡村俊一が遺志を引き継ぎ、石田と北野が、本当の主役のためにビルドアップし、味方が「銀ちゃん」=つかこうへいの舞台にした。それが、「蒲田行進曲完結編」なのだと思う。こうして、“銀ちゃんは逝く“ことができた。つかこうへい十三回忌に相応しい公演だったと思う。

なお、本公演はCS、ケーブルTVなどで視聴できるTBSチャンネルで8月末に放送される。「飛龍伝2020」、「熱海殺人事件」も放送を予定されている


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