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席亭・伊東四朗がご案内する「あたし寄席」〜笑福亭鶴瓶@日本橋公会堂(その2)

(承前)

中入り後、鶴瓶が再び登場し始めた落語は「妾馬(めかうま/めかんま)」。古今亭志ん生志ん朝三遊亭圓生も演じた、東京の落語であり、私も好きな話である。

長屋に住む大工の八五郎の妹お鶴、お殿様に見染められお屋敷に奉公に上がる。さらに、お殿様からお手がつき懐妊、男子を出産する。お殿様の正妻には男子がおらず、お鶴の子は世継ぎに、側室お鶴は”お鶴の方”様と出世する。

この慶事にあたり、お殿様は兄の八五郎を屋敷へと招待する。この屋敷でのやり取りが笑いを誘う場面なのだが、この話しの肝はその後である。八五郎とお鶴には年老いた母がいるが、屋敷への訪問は叶わない。八五郎は、その母からことづかったお鶴への助言と、身分の違い故、孫の顔を見ること、手の中に入れることのできない悲しさを伝える。母の優しさと辛さ、八五郎の思いが吐露される名場面である。

鶴瓶の落語へのアプローチは、遅く始めたこともあり、スキルで勝負するのではなく、話を鶴瓶自身の世界に引き込み、加工し演じる。新作落語、“鶴瓶噺”といった私小説ならぬ私落語と共に、古典落語も変質させる。

この日の「妾馬」は、型としては立川志の輔である。彼は、このネタを「新・八五郎出世」として演じている。志の輔も古典落語を、独自のアプローチで変え、「志の輔落語」として世に出している。それは独自のものであるが、その工夫は彼独特の視点と、それに基づいた演出、それらを話芸のスキルがサポートする。

鶴瓶の場合は、もっと自身が前面に出る。その“自身”とは、様々な番組で触れ合ってきた人間の人生である。これまで吸収してきた様々な人生ドラマを、落語の形式を借りて発散する落語家である。彼の「妾馬」を聴きながら、私はそう感じた。八五郎が語る兄の気持ち、母の気持ちは、鶴瓶が「鶴瓶の家族に乾杯」といった番組で触れてきた、お兄さん方、母親たちの思いが表現されているのである。

この後、再び伊東四朗との“トーク”となるのだが、鶴瓶は落語を本格的に始めた頃の話をする。「子は鎹(かすがい)」、東京では「子別れ(下)」を高座にかけ、袖で聴いていた桂ざこばが泣いて感動したエピソードを披露すると共に、桂文紅に稽古をつけてもらったことを話した。

桂文紅は四代目桂文團治の弟子。私は小学校高学年の頃、毎週のようにラジオの演芸番組の公開録音に通った。落語が3席、漫才が2席、そこで文紅の高座を何度も聴いた。上方らしい、派手で面白い芸が多い中、文紅の渋い高座は、落語がよく分かっていない小学生にも、「この人はちょっと違う」と感じられた。

弟子を取らなかった文紅に、鶴瓶は稽古をつけてもらいに行くのだが、そこには落語の“スキル”をしっかりと身につけようとする意識があったのだと思う。

2005年に他界した桂文紅の芸と、鶴瓶の人生経験がブレンドされた「鶴瓶落語」に乾杯!


*本稿を書いた後に、これを見つけました。おそらく、ラジオ番組「日曜日のそれ」からの抜粋だと思われます


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