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席亭・伊東四朗がご案内する「あたし寄席」〜笑福亭鶴瓶@日本橋公会堂(その1)

誰がなんと言おうとも、“日本の喜劇人”のレジェンドは伊東四郎である。もちろん、誰も何も言わないだろうが。80歳を過ぎても、毎年のように舞台に登場、今年は「席亭」として寄席をプロデュースした。

人形町の日本橋公会堂における、「ニン!ぎょう町『あたし寄席』」である。フライアーには、<うちの高座に上がるのは、あたしが好きな落語家だけ。ご用とお急ぎでなきゃ、是非見においで>とある。

7月と9月、3日ずつの興行。日替わりで出演する落語家は、春風亭昇太、笑福亭鶴瓶、柳家三三、柳亭市馬、春風亭一之輔、桂宮治と錚々たるメンバーである。

私は、“ご用とお急ぎ”でない、鶴瓶の会を観た。

笑福亭鶴瓶が入門したのが1972年、ほどなくアフロヘアにオーバーオール姿でテレビに登場、小学生から中学生になろうとする私にとっては、メディアの中の兄貴のような存在だった。毎日放送の深夜ラジオ「ヤングタウン」は愛聴する番組であり、1978年に始まった「ぬかるみの世界」はラジオ番組の概念を覆すものだった。

ただし、鶴瓶はあくまでも身近にいるタレントであり、落語家ではなかった。それが変化させたのが春風亭小朝、彼の勧め〜強制により、五十代になってから鶴瓶は本格的に落語を演じ始める。小朝が作った「六人の会」が、さらに後押しする。そのことについて書き出すと、また長くなるので別の機会にするが、それ以来、笑福亭鶴瓶の落語を聴く機会ができた。

それでも、最近はご無沙汰であり、記録を見ると最後に観た高座は2014年9月、赤坂ACTでの独演会だった。彼の落語はどう進化しただろうか。

伊東四朗、進行役の水谷可奈アナウンサーの紹介で高座に登場した鶴瓶は、師匠の六代目笑福亭松鶴との思い出話から始めた。この流れは、師匠のエピソードを新作落語にした「長屋の傘」かと思ったが、演じられたのは「かんしゃく」。立派な屋敷に住む旦那はかんしゃく持ちで、始終小言をならべる。そんな状況をスケッチした話で、先代の桂文楽が得意にし、故人となった柳家小三治も演じた。鶴瓶は小朝にこの話を演るよう勧められ、旦那を松鶴に変えて作り上げた。

高田文夫が、「他界した芸人や師匠のことを語り継ぐことは重要である」という意味の発言をしばしばする。私は幸いにも、六代目松鶴を知っている。それでも、鶴瓶の高座で名人を思い出す。鶴瓶は様々な形で、六代目のことを伝えているが、この落語もその一つである。

一旦、高座から下がり、伊東四朗/水谷アナとの“トーク”。話しの“聞き手”としては名人とも言える鶴瓶が聞かれる側に座るのが新鮮である。かつて、今の奥さんと共に“あのねのね”のメンバーであったことが話題に。鶴瓶は浪商から京都産業大学に進むが、大学で出会ったのが清水国明と原田伸郎。二人を中心にして、鶴瓶らが参加したのが“あのねのね“。

そんなエピソードも含まれていた鶴瓶のラジオを、中高時代に楽しんでいた。鶴瓶は、昔を思い出させてくれる芸人でもある。

話がはずむ中、ふと我に返った水谷アナが前方の観客に「今、何時ですか?」と尋ね、慌てて中入りに入る。この回にピッタリの進行役である

続く



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