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ゴダール監督「気狂いピエロ」を観る〜今度は感じることができた

ジャン・ポール=ベルモンドの訃報をきっかけに、「勝手にしやがれ」を再見したことを書いた。その中で、大学時代「気狂いピエロ」は分からなかったと記した。

いつかはもう一度見なければと思っていた「気狂いピエロ」、今がタイミングとU-NEXTから配信した。

今さらではあるが、極めて面白い作品である。若い頃は“分かる”ことが必要だと思っていのだろう。あれから40年ほどの月日が経ち、“分かる”ことが重要なものと、“感じる”ことが大事なものの区別もついてきた。

「気狂いピエロ」は、“分かる”必要はなく、“感じる”べき作品である。ジャン・ポール=ベルモンド扮する主人公フェルディナンドは、アンナ・カリーナ演じるかつての恋人マリアンヌに再会、二人はフランス南部に向け逃避行する。そしてその背後には犯罪の香りがする。言ってしまえば、これだけである。この単純なドラマを、映像と結びつけてロジカルに理解しようとしても、無理な話である。

「勝手にしやがれ」は、優れた写真の連続のような映画と称したが、「気狂いピエロ」は絵画的な映画だと感じる。冒頭、フェルディナンドはバスタブの中で本の一節を音読する。それは画家ベラスケスについての文章であり、読んでいる本はエリー・フォール著の「美術史」である。

さらに、マリアンヌの姓はルノアールで、ルノアールの絵がオーバーラップする。そして、マリアンヌの部屋には、ピカソやモジリアニの絵や葉書が壁に貼り付けられている。ここで、私はこの映画と西洋絵画の関連をイメージした。

絵画には写実がありシンボルがあり空想がある。「気狂いピエロ」はこうした絵画を動画にコンバートし世界を作っているように思える。

その世界とは何か。冒頭のパーティーのシーンで、フェルディナンドは、映画監督のサミュエル・フラーに、映画とは何かを問う。本人役として出演のフラーは、「戦場のようなもの、愛・憎しみ・アクション・暴力・死ーつまり感動」と答える。

ゴダールは、この言葉を絵画的な表現により具体化したように、私は感じる。

マリアンヌは、再会したフェルディナンドに「人生は小説と違いすぎてガッカリよ。同じならいいのに。明快で論理的でわかりやすければ。でも実際は違う」と話す。

フェルディナンドは「意外と違わないものだよ」と応えるが、マリアンヌはそれを否定し、フェルディナンドを“ピエロ”と呼ぶ。そして、映画を通して彼を“道化”と呼び続ける。マリアンヌは謎であり、わかりづらい人生の元凶である。しかし、それが故に強烈な魅力を放つ。

一方の、フェルディナンドは、“ピエロ”として世界を楽しませていく。明快でわかりやすく

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