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放送法が求める「政治的公平」とは(その1)〜“行政文書“問題の本質は捏造ではない

3月8日の朝日新聞朝刊、トップ記事は「放送法文書 総務省が作成」という見出しで、立憲民主党議員が入手し公表した内部文書が“行政文書“(個人的なメモではなく、役所の正式な文書)であることを総務相が認めたことだった。さらに、他面においても、相当の量で本件を報道した。毎日新聞も、「放送法『行政文書』認める」というトップ記事、2面に解説記事を掲載している。

2015年の放送法の解釈をめぐる国会・参院総務委員会における答弁に至るプロセスを記述した文書で、テレビ放送に対する政府の姿勢が読み取れる内容で、実に興味深い。

一方で、日本経済新聞は、1面のどこにもこのニュースは見られず、第4面に小さく掲載したのみである。私は、新聞は複数紙を見ておかないといけないことを改めて実感した。

30年近く前のことである。テレビ局に勤めていた友人が、担当する番組で当時の総理大臣について“裸の王様“と揶揄したところ、会社の幹部から警告のようなものが入ったと聞いた。メディア、特にテレビ局は放送法があり、行政が許認可権を握っていることから、時の政権から間接的なものも含めプレッシャーを受けていないか、一般市民としては注意を払うべきことである。

本件の文書は2014ー2015年のものだが、総務省が自ら(エライ!)公表した文書を見ると、政治がいかにして報道に介入してくるかが感じ取られる。また、政府が言明したいことについて、どのようにして国会での質問とそれに対する答弁によって明らかにし、法解釈等の実現につなげていくか、そのプロセスがよく分かる。(2015年の答弁で質問に立つ自民党議員は、事前の振り付けにしたがって質問している)

私は、この世界の素人であり、そういった立場からすると、とても勉強になった文書であり、そのことを踏まえて、私のコメントを受け取って欲しい。

放送法の第一条は<放送を公共の福祉に適合するよう>、第二項に<放送の不偏不党、真実及び自律を保証することによって、放送による表現の自由を確保すること>と規定している。メディアというのは、政府のプロパガンダに利用されるリスクにさらされている。 そこで、報道の自由は保障するけれど、偏った報道、ウソは駄目ですよ、そしてそうならないように自律的に行動して下さいね、と言っているのである。

なお、BPO(放送倫理・番組向上機構)という組織があるが、これは放送局が自主的に設置・運営する第三者機関で、番組内容を自主点検するための仕掛けである。

そして、これを受けて第四条で放送番組の編集にあたっては<政治的に公平であること>〜「政治的公平」を求めている。これは、具体的に何を意味するのか。これが、今回の本質だと思う。

従来の政府解釈は、本“行政文書“によると、<放送番組全体としてバランスのとれたものであること>、<その判断にあたっては、一つの番組ではなく、放送事業者の番組全体を見て判断することとなる>としている。

これは、知恵の産物のように思え、流石に日本の官僚は上手く作るなぁと感心する。つまり、個々の番組を取り上げて、これは公平・あれは不公平とやり出すと、まさしく個別番組の作り込みー報道の自由に対する干渉に限りなく近くなるので、番組単位ではなく、一放送局の様々なプログラムを並べて、バランスを失していないか判断しようとしたのである。法律がその趣旨に反して悪用されないようにする、よく考えられた解釈である。もちろん、その前提として、メディアは自らの番組に対して、「政治的公平」が保たれているかを、“自律“的に点検し、問題があれば是正していくという自浄作用が前提ではある。

これに対し、本文書で見られるのは、当時の総理補佐官が、<全体で見るときの基準が不明確ではないか>、<一つの番組でも明らかにおかしい場合があるのではないか>という問題意識から、「政治的公平」に関する解釈の修正/補充を試みるプロセスである。

総理補佐官は、何を問題視していたのだろうか



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