言葉に有効性はあるのか〜「三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実」
映画「三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実」が、日本映画専門チャンネスでTV放送された。コロナ騒動下、封切り時見逃していた作品を、ようやく観ることができた。
三島由紀夫は、単なる作家ではなく、マルチタレントであり、時代のアイコンだった。ただ、私は幼すぎて、同時代人という存在ではない。そんな三島だが、この映画を見ることにより、その存在、背後に流れる時代の空気を、この映画で多少なりとも感じることができた。
東大安田講堂の落城は、1969年1月。“力”による変革に一定の限界が示された中、同年5月、東大全共闘の誘いにより、東大駒場キャンパス900番教室で行われた、三島と全共闘の討論会のドキュメンタリー。
三島由紀夫が格好良い、話が面白い、聞き手としても一流である。難しいイデオロギーを抜きにして、こう感じた。才気溢れる人とは、こういう人であり、結局その才気を一個の人間としてコントロールすることが不能となったのが、彼の自死に繋がったようにも思えた。
その才気が、言葉を使った対話という形で発揮されたのが、この討論会であり、イベントの冒頭で、三島はこう話している。「言葉というものは、まだここでなにものかの有効性があるかもしれない、ないかもしれない、試しに来てみよう」と、討論会に参加したと。
この発言に対し、作家の平野啓一郎は、「彼の作品の本質的な問題、(言葉が)アクチュアルな機能を果たすのかが問題だった」とコメントしている。
その意味では、この討論会は三島の持つ問題意識を、実地検証するものであり、それ故、彼の発言は真剣であり、リアルなイベントとなっているだと思う。三島は、“言葉の有効性”について、どのような感想を持って本イベントを閉じたのであろうか。
コロナ禍の下、様々な“言葉”が飛び交っている。その中のどれほどが、“有効性”を発揮する目的で真剣に発せられているのであろうか。
悲しいかな、そんなことを考えさせられてしまった
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