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「唐茄子屋政談」が言いたいこと〜春風亭一之輔の三昼夜(その2)

(承前)

中入り後は長講と話していた一之輔。夏の着物をまとい、夏の噺とことわって入ったのは「唐茄子屋政談」。

遊びが過ぎて勘当になった若旦那。「お天道様と米の飯はついてまわる」と高をくくっていたが、ついてまわるのはお天道様だけ。やけになって身投げをしようとするところに通りがかったのは伯父さん。「自分の力で一生懸命働き、その金で遊ぶんだ」と、甥の徳をさとし、てんびん棒でカボチャを担がせ商いに送り出す。唐茄子屋である。

暑い夏の炎天下、重い荷を担いで売り歩くことなどやったことのない若旦那。世の中には親切な人がいるももので、唐茄子売りを手伝ってくれる人に巡り合う。そして、若旦那自身も人助けへと。。。。

「情けは人の為ならず」と〆られる、一種の人情噺とも言えるが、一之輔は演じた後、「この若旦那、実はほとんど何もやっていない」と話していた。「つるつる」に続いて、“噺の言いたいこと“を考えているのだろうか。私は、あまりそういう発想をしないのだが、この日は“言いたいこと“に少しとらわれた。

「唐茄子屋政談」、私にとって分かりづらい噺だ。大ネタとも言われている。「情けは人のためならず」ということであれば、人に親切を施した若旦那は、それが巡り巡って、自分に恩恵が巡ってくるはずである。

確かに若旦那は勘当を解かれる。しかし、彼がこれだけのことで、まっとうな人間となり、実家に戻って商売に専念するとは到底思えない。一之輔が言う通り、1日の唐茄子屋体験で若旦那が売ったカボチャは二つである。その後、事件に巻き込まれ得るのだが、それで彼の何が変わったと言えるのだろうか。

しかし、私はようやくこの噺が分かったような気がした。人に“情け“をかけるのは、若旦那だけではなく、彼の伯父さんであり、唐茄子売りを手伝ってくれる通りがかりの若い男である。

特に後者は、全くの見ず知らずの人物である。これぞ、無償の“情け“であり、聞き手はこうした市井の人がいる世界について、一つの救いを感じる。

「唐茄子屋政談」が言いたかったことは、若旦那の行動も含めてだが、世の中は捨てたものじゃ無いということでは無いだろうか。

古今亭志ん朝の音源を聴くと、若い頃はサゲまで演じていたが、東横落語会や大須演芸場の独演会の音では、通りがかりの男に助けられ、かつて吉原で遊んでいたことの回想場面で切っている。長さの問題、さらに客席がぐっと受ける場面で終えるということだろうが、実はそこまででこの噺の本質、“言いたいこと“は完結しているという判断もあるように思えた。

一之輔の長い夜と、その反芻でした



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