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第15回 桂吉坊・春風亭一之輔 二人会(その1)〜米朝一門を継ぐもの

桂吉坊という上方落語家を知ったのは、15年以上前だろうか。師匠の桂吉朝の独演会に出ていたような気もするが、はっきり記憶しているのは、古今亭志ん輔の独演会に助演していた高座。当時は、えなりかずきに似ていることをマクラで振りながら、本寸法の上方落語を演じていた。若く、初々しい、あえて言うと幼さも残るような印象であったが、将来が楽しみな若手だった。

志ん輔師匠と飲み屋で一緒になった時、吉坊のことを可愛がっている、つまり将来を期待していると仰っていたのも印象に残っている。勉強熱心な吉坊のことを可愛がったのは、志ん輔さんだけではないだろう。

ところが、私はその後、海外に赴任したこともあり、気になりながらも吉坊の高座を追うことはなく、今に至ってしまった。そんなところに、天から降りてきた機会が、この日の一之輔との二人会@日本橋公会堂である。

開口一番、古今亭松ぼっくりが「道具屋」、続いて一之輔登場。一之輔については、明日記すとして、続いて吉坊登場。この回は、1席がネタ出し、吉坊は「死神」を出しており、中入り前の出番でこのネタをかける。

語り始めた吉坊の口調は、15年の時を経て、グッと落ち着いたものになり、そのトーンも少し低めになっている。吉坊も四十歳、いい感じである。噺に入ると、師匠の吉朝の空気が伝わってくる。その明るさ、緻密さ、上品さ、米朝ー吉朝につながる、一門の芸の伝承である。

「死神」は、グリム童話をもとに三遊亭圓朝がこしらえたとされている。金に困った男が、死神に出会い、その助言で医者の看板を上げると大層繁盛するのだが。。。。という話。私は米朝・吉朝の音は聴いたことはなく、一門の演目というイメージはない。それでも、高座は米朝一門のそれである。

多くの落語家がこのサゲをどう作るか、また同演出するかについて工夫をしてきた。吉坊は、どう料理するのだろう。楽しみにしながら、丁寧な語りを聴いていた。

ここからはネタバレになる。死神を出し抜いた男だが、結局は死神に捕まり、各人の寿命を表す蝋燭を見せられる。一般的なサゲは、男の寿命を表す蝋燭の火が消え、絶命する。吉坊は、男の絶命で話をサゲず、アクシデントで全ての蝋燭が消え、死神の存在意義がなくなることで締める。後で、調べるとこのサゲのアイデアは、あるピン芸人のものだと知る。それについては、本稿の番外編で。吉坊独自の「死神」、まだまだ発展の余地があるようにも思える。

休憩を挟み、再び登場した吉坊。この回の主催者は“らくごカフェ“だが、吉坊によると主催者は自前の鳴り物を増やしているとのこと。上方落語の場合、“はめもの“といって、演出として話の途中に、三味線・笛・鳴り物などが入る話がある。芝居噺を得意とし、はめものにも人一倍こだわった吉朝なので、その弟子も同様である。そのような彼に応えるべく、“らくごカフェ“は銅鑼を購入したということで、吉坊は折角なので銅鑼の入る話をと、「高尾」に入った。

これが素晴らしかった。「高尾」と言えば、三代目桂春団治の十八番、吉坊が誰から習ったのかは不明だが、春団治にルーツがあるに違いない。鳥取藩士、島田重三郎が反魂香を火にくべると、高尾太夫の姿が浮かび上がるのだが、この時の吉坊の所作のきれいなこと。

桂吉坊、素晴らしい齢の重ね方である。優等生が、有意義な時を過ごし、芸がふくらみ、遊びが生まれ、色気が出ている。古典芸能をこよなく愛し、“好き“から吸収した技術に裏付けられた落語を演じる。米朝を継ぐものとして将来を嘱望されながら、五十歳という若さで鬼籍に入った師匠、吉朝もさぞかし喜んでいるだろう。米朝ー吉朝という、上方落語の王道を継ぐ一人である。

これから、私は彼との間のブランクを埋めなければならない




*師匠も十八番とした「七段目」


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