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2022年のアントニオ猪木〜安らかにお眠り下さい(その2)

(承前)

ちょっと違和感を感じ始めたのが、70年代半ばから始まった異種格闘技路線だった。私はプロレスが好きだった。猪木は何故こんな変なことをやるのかと思った。プロレスを極めればいいじゃないかと。

そうは言っても、1976年のモハメド・アリ戦は注目したが、予想通りの凡戦だった、少なくとも当時はそう思った。むしろ、1979年のプロレス夢のオールスター戦が楽しみだった。馬場と猪木がタッグを組む、相手はファン投票で決められた。私は是非ともファンク兄弟とのストロング・スタイルの一戦を期待したが、ブッチャー/タイガー・ジェット・シン組となり、さらにTV中継もなくがっかりした。

1980年、大学に入り上京した私は、アントニオ猪木のプロレスを初めて生で観戦する。今はなき蔵前国技館でのNWFヘビー級選手権、対戦相手はスタン・ハンセンの後継として、外人エースとして売り出されていたハルク・ホーガン。猪木はホーガンを退ける。思えば、この辺りから私は徐々にプロレスから離れていったような気がする。この年、村松友視の「私、プロレスの味方です」が出版され、早々に私も読んだ。私もプロレスの味方だったが、私の中では一つの結論のようなものが生まれていたのかもしれない。3年後、IWGPの決勝で猪木はホーガンに衝撃の敗戦を期するのだが、私にとって大きな出来事として記憶されていない。

長いインターバルの後、猪木について改めて考えたのは、柳澤健の著書「1976年のアントニオ猪木」だった。私が読んだのは2009年に出た文庫版だが、これによって違和感を感じ、熱心にフォローしなかった異種格闘技路線について埋め合わせることができた。

オカダ・カズチカらが活躍する、今の新日本プロレスを7−8年前から、それなりにフォローするようになった。ストロング・スタイル、日本人対決、アントニオ猪木の精神を受け継いでいる。ただし、猪木のような山師的な、興行師的なものは感じられない。予定調和とも言える。

今回、猪木に関する様々な記事をみると、彼の人生は「何故そんなことまでやるの?」の連続だったことがよく分かる。本年8月、24時間テレビに車椅子姿で登場し、最後の最後までその姿勢を崩さなかった。他人から見ると「そんなことまでやる?」だが、猪木自身は「なんでもできる」だったことだった。

そのことを象徴するような記事を2つ紹介しよう。日刊スポーツで担当記者を務めた首藤氏は、猪木の口からはスクープネタがポンポン飛び出したが、<ほとんど記事にできなかった。あまりに話が大きすぎて、慎重派の私は、いつも書くのをためらったのだ>と書いている。毎日新聞の評伝で、筆者の堤記者がインタビューした際、猪木は「北朝鮮で試合をやる」と言った。<生半可にプロレス通だった私は、猪木さんならではの「大風呂敷」と受け流してしまった>としている。

アントニオ猪木がいなければプロレスが根付き、今日まで続くことはなかっただろう。猪木が“格闘技“という言葉が広め、世界に多くの素晴らしい“格闘家“がいることを誰も知らしめた。彼が作ったレストラン「アントン・リブ」で私は初めてスペアリブなるものを食べた。

「なんでもできる」という彼の熱意、彼の闘魂、そして彼が取ったリスクに対するリターンを、私を始め多くの人が享受した。猪木によって、世界が広がったのだが、それはプロレスや格闘技という枠組みを乗り越えた。

それ故、彼の死がこれほど大きく取り上げられているのだと思う。ご冥福をお祈りします


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