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「なぜ国葬?」という報道も散見される中〜「民主主義に挑戦する」政府

大前提として、安倍元首相を襲った行為は、断じて許されるべきことではない。個人の行為罰はしっかりと追及すべきである。一方で、その真因をしっかり分析して、未来に生かさなければ、無駄死になってしまう。

また、哀悼の意は表したいし、彼の死に心を痛めた人々にも同情する。しかし「国葬」という形式はすんなり受け入れられない。自民党を中心として、この事件に乗じて安倍晋三を神格化し、彼の業績は全てポジティブに評価しようとしている。もちろんプラスは沢山あったが、一方で、日本の国力が低下したこと、超金融緩和政策への評価などなど、安倍氏の功績について、歴史的な評価が下されているとは到底思えない。そんなつもりはないと言っても、「国葬」という形式はこうしたメッセージを無意識にでも発信する。

戦前においては、「国葬令」というものが存在した。第一条・第二条において皇族の国葬について規定し、第三条で<国家に偉功ある者薨去又は死亡したるときは特旨に依り国葬をたまふことあるべし>とある。

この法律は廃止されたが、皇族以外を国葬とする際は、この「国家に偉功」があったかどうかが判断基準になるはずである。

そのことについて、私は決して国民的コンセンサスが出来ているとは思わず、そんな状況でなぜ一足飛びに国葬ということになるのか、まったく理解ができない。

などと考えていると、メディアにおける報道の中にも、疑問を呈する記事が散見される。

朝日新聞、7月21日の「天声人語」では、<国葬には哀悼と称賛が一体化する危うさがあるのではないか>とし、吉田茂以来、「国葬」が行われてこなかった背景には、国葬に対する<疑問が高まれば、本来の追悼に水を差す。これまで避けてこなかったのは、政治家たちの一種の知恵かもしれない>と書いている。

週刊現代の2022年7月23・30日合併号の金平茂紀による「ジャーナリストの目」では、旧統一教会と政治家との関係=今回の凶行の動機形成の部分について、メディアに求められていることに触れた上、<国葬の前に真相が明らかになることをのぞむ>と結んでいる。自民党は「国葬」というイベントを作ることにより、「不都合な真実」から国民の目を遠ざけようとしているように、私は感じる。

毎日新聞7月22日の「金言」で論説委員の小倉孝保は、イギリスの例を紹介する。<英国では基本的に、国葬は基本的に王室のメンバーが対象となる>。ただし、<議会と王室が了解した場合、王室メンバー以外でも国葬の対象となる>。ニュートン、最近では戦時宰相として貢献したチャーチルが国葬で送られた。イギリスでは「議会と王室の了解」というルールがあるのだ。上述の通り日本にはルールがなく、<政府の一存でそれが決まることに違和感を覚える国民は少なくないだろう>としている。

海外から多くの要人が来日することを、国葬の根拠とする意見もある。国葬という形式故に、より多くの弔問客が予想されるわけで、本末転倒の議論のようにも思える。また、過去の例で言うと内閣・自民党の「合同葬」という方法もある。直近では中曽根元総理がその対象となった。これも国庫からの支出があり、反対意見もあろうが、要人警護のコスト・カバーも含め、政府に委ねられた国事の範囲という色がより鮮明になる。

こうした選択肢も含め、今回の国葬は国民への説明プロセスが一切なく決定している。岸田首相主導のようだが、「聞く力」のかけらも感じられない。今回の事件の直後、多くの政治家が凶行を「民主主義への挑戦」としていた。ところが、国葬反対の意見に対し、茂木幹事長は「国民の認識とかなりずれているのではないか」とコメントしている。この人こそ”ずれており”、この発言も含め、「民主主義への挑戦」ではないか。

国葬は昨日(7月22日)、閣議決定された。私はとても気持ちが悪い



*岸田首相 公式サイト“プロフィール“より


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