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「中村仲蔵」体験(その3)〜圓生百席と「中村仲蔵出世階段」ふたたび

NHKドラマ「忠臣蔵狂詩曲No5 中村仲蔵出世階段」をきっかけに、落語・講談の「中村仲蔵」について書いてきた。

ドラマに少しもどろう。 ストーリーの中で、重要な位置をしめるのが段田安則演じる、立作者の金井三笑である。歌舞伎でも人形浄瑠璃でも、座付きの筆頭作者は大きな力があった。演出のみならず、配役についても座頭と共同で対応する。

落語・講談の「中村仲蔵」の中心となるエピソードは、「仮名手本忠臣蔵」で振られた役が、五段目の斧定九郎一役だった。なぜ、このような配役となったのか。ドラマでは、その背景が盛り込まれていた。それは、立作者、金井三笑の意向である。仲蔵のことを良く思わない三笑が、悪意を持って、名題になった仲蔵にこの役を振るのである。

落語においてこの背景については明示的に語られていなかったように思った。その点では、ドラマでしっかり脚色し、同時に立作者の重要性を表現したことは、段田の演技を含め、優れた演出だった。

確かに、紹介した先代正蔵、志ん朝、神田伯山の演出には、立作者の存在は出てきていない。私の持っている音源の中で、未聴のものがあった。三遊亭圓生が「圓生百席」の一席として録音した「中村仲蔵」である。

「圓生百席」は、昭和の名人が晩年に、将来の範となるべく自身の口演を録音したもので、客前ではなく全てスタジオ録音・編集である。聴き始めると、仲蔵の幼少期、孤児の身分から養子となり、芸の道に進むところから始まる。

金井三笑との確執も演じられ、前述の定九郎一役につながっていく。大きな流れとしては、前述のドラマと同じである。圓生のことだから、ドラマの原案、仲蔵自身の手になる「月雪花寝物語」「手前味噌」に当然あたり、話の中に取り込んでいると思われる。また、NHKドラマな作者も圓生の録音を参考にしているような気もする。

圓生はディテールについてもしっかり語り、歌舞伎の場面では、竹本(浄瑠璃節)を演じたりもする。圓生は子供義太夫の芸人だったので、見事なものである。

ただ、この録音を聴いていると、学校の講義を聴いているように感じることがある。勉強になる一方、エンターテイメント性についてはどうなのだろう。今の演者にとっては、これは「中村仲蔵」の基本形であり、これをベースにいかに噺を刈り込み、脚色するかが勝負であろう。また、圓生の演じ方は、現代においてはむしろドラマのフォーマットに合っているのかもしれない。

立役者が登場しないものを仮に正蔵型、一方を圓生型とすると、仲蔵のおかみさん、お岸の立ち位置が違う。正蔵型では、三笑の企みというものが描かれていない分、定九郎一役でくさる仲蔵を、お岸が「その配役には、座として何か期待するものがあるのではないかしら」と話す。私は、この場面が好きである。おかみさんは、夫を陰で支えるだけではない、夫が気がつかないパースペクティブを提供することも重要である。

正蔵にしろ圓生にしろ、エンディングは師匠に仲蔵が誉められるシーンである。「圓生百席」は上演後の芸談が収録されているが、その中で、圓生は<やはり師匠に認められるのが、一番>と語っている。ところが、神田伯山は客席からの絶賛で読み終えている。伯山は間違いなく「圓生百席」を聴いているはずである。

にも関わらず、変えているのは、伯山が芸人にとって一番重要なのは師匠ではなく、観衆の評価であると表現したかったからである。私は、この脚色が伯山の「仲蔵」を感動的なものにしていると思う。いずれにせよ、圓生と正蔵をベースに、いかに現代の「仲蔵」を作るか。それが、演者あるいはドラマに求められていることだろう。

蛇足だが、同じ芸談の中で圓生は、<中村仲蔵は“人情噺“>であり<オチ・下げは必要ない>と話す。そして、<誰とは言わないが>といいつつ、八代目正蔵の実名を出し、正蔵のオチをつけた型を批判している。圓生と正蔵の不仲は有名な話である。

こんなことも踏まえながら、ドラマを再度楽しむ、あるいは落語や講談を聴いてみるのも楽しいのではないだろうか。配信の音源には、正蔵型として春風亭一朝の高座がある。一朝は小朝の兄弟子、正蔵の孫弟子、まくらで、まさしく先代正蔵から教わったと話す。圓生型としては、桂歌丸の音源があった


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