ショートショート 1分間の国 ◎【不信者】



 部屋の片付けと掃除を丸半日かけて終えた谷山悠理は、ようやくテーブルに腰掛けてポットの湯が沸くのを待つ。ラグマットの毛並みの乱れは寺田真也の足跡だ。昨夜、寺田真也は谷山悠理を取り残してひとり泥酔し、ひと暴れしたのだった。


 寺田真也が荒れた理由は失恋で、外見から判断してすっかり清楚系だと思い込んでいたのに実は複数性愛者というのか、ポリアモリーを疑いたくなるくらいに奔放な女だったのだそうだ。


「オレもやめときゃいのに問い詰めたんだよ。そしたらいまのところパパを入れて24人だっていってさ、……だったらそんなの毎日こなしても3週間以上かかるんだよ。嘘だろうっていったら1日に複数こなすんだってよ。最悪どころじゃねえよ」


 いくらなんでも24人はいい過ぎではないかと思ったけれども、その場で彼女と同じサークルにいる高校の後輩に電話でそれとなく確認したら、ヤバいですニックネームは性獣です、という答えが返ってきた。本気で彼女に惚れていた寺田真也にはまったくもって残酷極まりないなりゆきで、慰めようもない。


 谷山悠理はただただ呂律の回らない嘆きを聞かされてほとほと疲れてしまった。


 ただ、寺田真也が便器を抱えてゲロを吐きながら放屁をした現場に居合わせたというのは収穫だった、と谷山悠理は思い出し笑いをする。申しわけないけれども、これはトイレのドアを開放したままであれもこれも排出する真也が悪い。


 谷山悠理は、しかし寺田真也の気持をほんとうのところはよくわからないのだ。頭のなかで考えて、うむこれは酷い、可哀想だとは思うけれども、嫉妬の辛さや失恋した心の痛みはわからない。谷山悠理にとって人はそもそも裏切ったり嘘をついたりするものなので、フッたりフラれたり、2股をかけたりかけられたりもごくあたりまえのことなのだ。さすがに24股は単純に数的問題として過剰だと驚いたが。


 寺田真也は泣き言を聞いてもらう相手を間違えたのだ。悠理の記憶に残るのは、嘔吐しながら放屁するというなんとも果敢な一発芸だけだろう。

 

 人をまったく信じていない谷山悠理は、だから嘘をつかれようと裏切られようと、また身勝手な心変わりにあおうとまったく腹を立てない。それどころか努めて記憶に留めておくようにしないとすぐに忘れてしまう。そして悠理自身も、おかげで精神衛生上とてもラクに生きられると喜んでいる。


 たとえば、あのときのあいつのあの言葉はなにを示しているのだろう、などと深刻に悩むこともない。その代わり恋愛はしたことがないが。


 人に対する悠理の態度は、誰彼の区別なく、徹底的な寛容と同時にまったくの不寛容だといえるだろう。


 悠理自身、どうしてこうなったかについて考えてみたことがある。なにかきっかけになるような手酷い仕打ちに逢ったなどということはない。子ども時代を振り返っても、平穏で落ち着いた家庭で不自由なく育てられきたと思う。


 ただ、これは高校を卒業するくらいになってようやく気づいたのだけれども、無条件の愛情というものに触れたことがない。もちろん両親は大切に育ててくれたが、それは親としての義務としてそうしているだけであって、無償の愛とかいうものとはまた別のものではなかったかと、いまになると思うのだ。


 それが人に対する徹底的な不信とどう結びつくのかはわからない。しかし悠理としてはそれがどこか深いところで結びついているような気がするのだ。


 3日後の日没までに戻ってくる、と批判する自分に死刑を科した邪智暴虐の王と約束し、親友を人質として差し出して妹の結婚式に出かけた男がいる。


 戻れば死刑が待っている。しかし男はボロボロになりながらも約束通りに帰還し、人質に差し出した親友はその男に向かってもう戻ってこないのではないか、と一度だけ疑ったことを白状し、男もまた一度だけ友を裏切りかけたことを告白して、一度ずつ互いの頬を殴り、それから熱い抱擁を交わす。この美しい友情を見たくだんの王は心を洗われ、男を無罪にし、さらに自分も仲間に入れてくれと懇願した。


 太宰治の有名な短編小説『走れメロス』である。谷山悠理は中学生時代、この小説をまったくのギャグとして読んだ。


 人は我欲のために嘘をつき騙し、裏切り、陥れる。谷山悠理の人間観はますます揺るがない。しかし、そうした悪徳よりも実は自分が抱えているような不信、ひいては群れで生きる動物であるはずの人が個々に孤立してしまうことこそがいつか人を滅ぼしてしまうのではないか、と谷山悠理は怖れている。


                             (了)



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