ショートショート 1分間の国 ◎【悪魔が笑う】



 ドスンと足元の地面が鳴り、驚いて目をやると、象牙色のコートを着た女が倒れていた。うつ伏せに乱れた長い黒髪の下からなにか液体のようなものが飛び散っていて、それからさらに追いかけるように溢れ出している。薄い背中が1度だけ小さく上下した。


 腕が不思議な角度にねじれている。ヒロシは半ば反射的に頭上を見上げたが、憂鬱な灰白色の午後の秋空が広がっているだけだった。周りが急にざわざわしはじめる。


 飛び降りたのだな。


 ヒロシはようやく事態を客観的に言葉にして把握し、それから、どうやら即死できたようでよかった、と思った。なにがあったのかは知らないけれども、その不幸のうえに大怪我を負って死に損なうなんてやりきれない。


 もう苦しまなくていいんだ。


「110番通報しましたから」


 すぐ後ろで女の固い声がした。こんなときはどうしてかいつも女のほうがしっかり対処しているような気がする。


 周りを取り囲みはじめた人々もほとんどが携帯電話を手にしているけれども、それは通報や緊急連絡のためではなく、死体を撮影するためなのだった。


 死体を撮影してどうするのだろう。みんなブルース・ウイリアムズにでもなった気分なのだろうか。いや、ブルース・ウイリアムズをこの野次馬のなかに知っている者がいるはずもない。


 死体を取り囲む人々の輪のちょうど向こう側の背の高い学生風の男がさっきからこちらを見ているような気がする。


 死体の頭部から吹き出した液体が歩道を黒く濡らしてすぐ足元まで近づいている。


 ヒロシは慌てて踵を返し、人だかりをかき分けて野次馬の群れから逃れた。近くのビルのショーウインドーに自分の顔を写した。


 いつも無意識に浮かべている笑いを悟られないように着けている大きな白いマスクをずらすと、案の定、その顔は笑っている。ヒロシはギョッとして思わず体を固くする。そこに映っているのは、唇を少し歪めただけのふだんの冷笑ではない。口角を思い切り左右に広げて歯をむき出し、満面の笑みを炸裂させているのだ。


 どうしてこんなふうに笑うのか、笑えるのか、ヒロシ自身にもわからないし不気味だった。しかし昔のことをいえば、高校生になったあたりからいつも皮肉っぽい笑いを顔に張り付かせていて、周囲の人間を苛々させていることは自覚していた。


 なにがおかしいのかといえば、人のやることなすこと、この世のすべてが滑稽に感じられるとしかいいようがなかった。


 ヒロシはよろよろとよろけるように落ち葉が散らかる歩道を歩いていく。とてもそんな気分ではないけれども、今日はこれから採用面接を受けるのだ。


 いつまでもマリに危険な仕事をさせておくわけにはいかない。このまま時間が経てば経つほどマリの心の傷も深くなる。


 冷たい秋風が恵まれた者にも恵まれない者にも吹きつける。しかし太陽の光ほど平等に感じられないのはどうしてだろう。これからの季節、巣篭もりをするようにして平穏に暮らせる人々が羨ましい。


 困った。


 右側のズボンの膝から下が黒く汚れている。もしかするとたぶん、いやきっと、さっきの女の血を浴びてしまったのだ。これでは面接にいけないではないか。いやそれでもいかなければならない。事情を説明すればなんとかなる。それともどこかで新しいズボンを買うか。


 思案しながら早足で歩いているうちに時間は刻々と過ぎていく。そしていつもならありえないことが起こった。交差点の歩道の脇に立ててあるのぼり旗の土台につまづいて転んでしまったのだ。


 あるいは間近に飛び降りた人を目撃した精神的な衝撃が脚をもつれさせたのかもしれなかった。


 ヒロシは縁石の角に顔を強かに打ち付け、それが痛みを伝える前に跳ね起きて走り出す。なんということだ。ようやく人づてに頼み込んで掴んだ就職のチャンスだというのに。


 顔、とくに口のあたりが激しく痛んだ。ちょうど大きな公園の入り口にいき当たったので、いまにもまた転びそうに前のめりによろめきながらベンチに転がり込んだ。


 仰向けになってのろのろとマスクを外すと血が赤い染みから糸を引いていて、なにかがポロリと胸の上に落ちた。歯だった。前歯が折れている。しかも2本も。


 なんてこった。いったいどういうことだ。どうしろというんだ。


 しかしとにかく、面接にはいかなければならない。マリをいつまでも風俗で働かせるわけにはいかない。オレはヒモではない。就職先を紹介してくれた先輩のメンツもある。


 のろのろと立ち上がったヒロシは公衆トイレの水で顔を洗う。上の前歯2本を失った顔は間が抜けて我ながら情けなかった。そしてそれよりもこんなときでさえ、ニヤニヤと薄ら笑いを続けている自分が忌まわしく恐ろしかった。


 人はそもそも無様で滑稽な生きものなのだ、この厳粛な事実からは誰も逃れられない、とヒロシは笑いながら思った。


                              (了)


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