ショートショート 1分間の国 ◎【家族という迷宮】
2日前の深夜2時過ぎ、私の部屋のドアをノックするものがあった。私はウトウトしてはいたものの半醒半睡というよりはかなり醒めた状態でベッドに入っていて、その続けて2度鳴らされた、手加減なしのノックの音に対しても、律儀に2度「はい」と返事をした。
それへの応答はなかった。家族はもうとうに眠っている時間だし、いま私に用事のあるものなどいるはずはない。いったいどういうことなのだろう、と考えて気味が悪くなってきた。幽霊話は認めていないけれども、時刻はちょうど丑三つ時である。否応なく、本能的に不安が募ってしまう。
もちろん私はいい大人なのだ。ベッドのなかで臆病に身を縮めていてはだらしがなさすぎる。思い切ってドアを開けて廊下を確認しよう、とようやく体を起こしかけたとき、ちょうど妻の部屋のドアが開く音がした。
かすかな足音がして私の部屋と廊下を挟んで斜め向かいにあるトイレのドアが開き、水が流され、またかすかな足音がして自室に戻る。
ああ、やっぱりそうだ。トイレに起きた妻に何事も起こらず、廊下になにも見なかったのならそれでいい。怪しいことはない。
妻のタイミングのよさに救われて安堵しつつ、それにしてもあのノックの音はいったいなんだったのだろう、と再び考えているうち、いかにも他愛なく簡単に眠りに落ちた。
「それは生き霊に違いないわ。あなたを恨んでいる人たくさんいるから」
翌朝、食事の最中に確かめると、妻は楽しそうに笑った。もちろん夜中のトイレにおかしなことはなにもなかったという。
「昨日、というか今日はなにか特別な日、いわくのある日だったっけ」
親戚づきあいどころが実家の家族にもまったく興味のない私は、もしかして誰かの命日なのかも、と考えたのだった。人さまにそんなに恨まれているような覚えもないし。
「今日はなにもない平日。でもそういう日にならないように気をつけてもらわないとね」
最近、妻の口ぶりはますます保護者然としてきている。
「……本当にそんなノックの音なんて聞こえたの。そうだったら気持ちが悪いわ」
さすがに少し不安になってきたらしい。
「本当さ。ドアの下のほう、ちょうどベッドに寝て頭くらいの高さのところでなったんだ」
自分の言葉にドキッとした。私がまだ小学校の低学年生だったときに死んだ祖母のことを思い出したからだ。
祖母はいまから思えばとても古いタイプの人で、私の父、そして私を本家の跡取りとしてとても大切にし、可愛がってくれた。それには代々のこの家に男は私たちだけだったことも強く影響している。
最晩年、少し痴呆がかって半分寝たきりになってからも、祖母は小学校から帰ってくる私を待っていて家中追いかけ回した。同級生はさらに嫌いらしく、連れて帰ってくると怒ってウーウーとなにごとかよく聞き取れない言葉を発しながら迫ってくる。
そのころはもうとっくに足腰が立たず、四つん這いかあるいは座布団に膝を折って正座したまま、両手でスノーボードに乗るように床を滑らせてきたりした。
いまなら祖母の気持ちもわかり、汲み取ってあげられるけれども、当時は10歳に満たない子どもである、同級生と一緒になって祖母を化けもの扱いし、半分は面白がって鬼ごっこのように逃げて遊んだ。
いつも私たち2人が最終的に逃げ込むのはトイレだった。
もしいま祖母が生きてこの家にいて、私をトイレまで追い詰めそのドアをノックしたとすれば、その高さはちょうど今日未明の私の部屋のドアのノックと同じくらいになるだろう。
しかしそんなはずはない。そんなことは絶対にない。
「お母さん、あなたのお母さんは、あなたたちが逃げ回っていたいたとき、どこでなにをしていたのかしら」
妻が思いがけないことをいった。いわれてみれば母親は体の悪い祖母の世話もあり、一日中家にいたはずなのだ。
「たぶん、……たぶん、母さんはばあさんが嫌いだったんだろうなあ」
長男の母とその嫁のご多分に洩れず、嫁姑の葛藤には凄まじいものがあったと聞いている。たとえば、母は祖母に罵詈雑言を投げつけて気づかれないためにいつも大きなマスクをしていたとか。これはご本人から聞いたことである。
そういう険悪な嫁と姑のあいだに立った父はどうしていたかというと母いわく「偉かったのよ。どちらの味方にもつかなかったんだから」なのだ。つまり、他家にひとり嫁いできた母を庇うこともせず見て見ぬ振りをしていたということだ。
その父の心根の冷淡さは、いましがた私がいい放った「……たぶん、ばあさんが嫌いだったんだろうなあ」にも受け継がれていると思う。
いま私の実家とは離れて暮らしているけれども、妻にとっても嫁姑の話は世代がスライドしただけでまったく他人事ではない。私が母に対して少し突き放したようないい方をしたのには、そのことにも理由がある。
ふうん、という顔をして妻は違う話を切り出した。
「私のあと、あなたもトイレに入ったわよね」
いや、未明の私は妻が何事もなく部屋に戻ったことで安心してそのまま眠ってしまったのだ。
怪訝な顔をした私を見て妻は言葉を繋いだ。
「だってトイレのドアをノックしたでしょ」
(了)
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