ショートショート 1分間の国 ◎【ギフト】



 110番通報を受けて到着したとき、戸山太郎、通称シドはすでに香水のきつい匂いが充満する現場アパートのキッチンで息絶えていた。


 シドはこの界隈にたむろする不良グループの一員で、駆けつけた我々巡査とも面識がある。元プロボクサーで、一時は〈悪魔の左〉、〈キラー〉などと賞賛されていた天才肌の選手だった。


 しかし素人とちょっとした揉め事を起こしてリングを遠ざかってから、もう3年が経とうとしている。本人は必ず返り咲いてチャンピオンになるといっていたようだが、再起は不可能だろう。それどころか、いまは酒瓶と一緒に床に転がり、覚醒剤案件の内偵対象者でもあった。


 所轄の強行犯担当の刑事が来るまで現場を保存しておくのが我々警察官のとりあえずの役目だ。しかし倒れているシドの状況があまりに異様で凄惨だったので、私はその亡骸に背を向け、もっぱらシドの同棲相手である赤井良美、通称オレンヂのようすを見ていた。


「6月13日午前10時17分、死亡確認」


 ほどなく駆けつけた救急隊員がいい、さらに強行犯担当の刑事の一団が加わってフラッシュがたかれる。


「すみません。第一発見者の方ですか」


 入ってくるなり室内を一瞥した刑事がオレンヂに訊いた。オレンジは立ち尽くしたまま肩をすくめて頷く。


「どこかへお出かけだったんですか」


「いいえ。ここにいました」


 それから刑事の少し戸惑ったようすを見て言葉を継いだ。


「寝ていました」


 しかしオレンヂは体にぴったり密着した赤いノースリーブのワンピースを着、青い髪を上にまとめ、派手なメイクアップまでも入念に施している。誰の目にも寝ていたにはあまりにも不自然だった。


「……、外出されていたんですか」


 ちょうどカーテンが引き開けられて血色のいい頭頂部を光らせた刑事がもう一度訊いた。


「いや、ワタシ人に見られる仕事だから、……。いつも気にしていないと、…」


 刑事の質問の意図をわかって、オドオドした調子でオレンジは答えた。痩せた肩が震えている。たぶん女優とかモデルとかいいたいのだろう。傾いた木造2階建てアパートの2間しかない部屋に住む芸能人。


 しかしこの場合、そうであるために、芸能人であるために、オレンジはシドが倒れているのを発見してから身なりを整えた、ということになる。


「こんなことは絶対にありえないですよ」


 救急隊員がボサボサ頭の刑事とキッチンの隅に突っ立って話をしている。


「自分の手で自分の首を締めて死ぬなんて、できません。そんな話は聞いたことがない。仮に自分で自分の首を締めたとして、途中で気を失えばその段階で当たり前ですけど腕の力は抜けますから。それで呼吸は復活するでしょう」


 しかしその足元に仰臥しているシドの左手の指は喉に固く深く食い込み、締め上げている。虚空に見開かれた目には恐怖と一抹の哀しみが宿っているように見えた。


 それから私は一生忘れられない奇妙なものを見た。ストレッチャーに乗せられて運ばれていくシドの左腕が確かに動いたのだ。死んでいるはずなのに。まるで小さくフックを打つように。


〈悪魔の左〉が主人を殺す。そして主人が死んでもその腕だけは生き続ける。


 よく考えてみれば、天才の人生にはこうした奇妙な出来事が形を変えてしばしば訪れるような気がする。


 天才は天からの危険な贈り物だ。


                            (了)



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