掌編小説 ◎【松尾正吉と懐かしい影】


 途中で誰かに道を確認しないとたどり着けないかもしれないと思っていたけれども、目的の黒峰村は意外なほどあっさり姿を現した。


 松尾正吉が中学校の2年生になるまで過ごした黒峰村は山間の寒村であり、わずかな耕地を十数戸の農家が分け合って米などをつくっていた。


 その事情はいまも変わらないらしく、数百メートルずつ離れた家はどれも古色蒼然としていて、取り囲む田んぼには収穫を終えた稲株が並んでいる。おそらく総世帯数も変わっていないのではないだろうか。


 考えてみれば、山間の突き当たりの村までいくのにそれほど道に迷うはずもないのだ。


 松尾正吉がここを訪れるのは約50年振りになる。なにも変わっていない気もする一方で、やはり子ども時代とは距離感が違い、村の全体は意外に狭く小さい。


 県道とは名ばかりの細い道路をかつて自分の家があったと思しき前を通り過ぎると、今回の訪問の目的である売り出し中の大きな屋敷がある。さらに進めば黒峰小学校および中学校だ。小中併設校で、2階建ての校舎が道路と直角に伸びている。もうずいぶん以前に廃校になっているけれども、案外傷まずに昔のまま残っていることに驚く。


 車を降りると耳を圧迫するような沈黙に捕らえられた。虫の声も鳥の声もない。道路の進行方向正面に聳える黒峰山がただただ無聊をかこって黒く立ちつくしている。道路の左手、学校の反対側には黒峰川が流れているはずだ。


 黒峰の学校には幽霊が出るという噂がずうっとあった。学校に幽霊話などつきものだ、と教師も、そして正吉はじめ子どもたちさえあまり気にも留めなかったけれども、ときおりちょっとした事件めいた騒動が起こった。


 黒い影が学校の窓から外で遊ぶ子どもたちを覗いているのが見えたとか、校舎隣のグランドで開かれた運動会のスナップ写真に誰も知らない人物が写っているとか、あるいは夜中に学校の周りを女が血のついた人形を抱えて走り回っていた、とかだ。


 噂には尾鰭がついて、それはきっと自殺者の霊だという話も聞いたことがあった。しかしこういう話を村の大人たちはあからさまに嫌がったので、その都度すぐに立ち消えになるのだった。


 大人たちはなにか隠しごとをしているのではないか、と子どもながらに正吉は疑ったこともある。


 頭のなかがまたざわざわしてきたので、正吉はゆっくりと歩きはじめた。最近は自分でも意図しない、まったく予想外な行動をしてしまうことがさらに多くなってきた。そしてあるときふと我に返って無理矢理に辻褄を合わせるのだ。しかしわずかでも体を動かしていると落ち着ける。


 家族にも話していないけれども、正吉はときどき自分の正気に自信がもてなくなる。


 記憶にない行動のほか、〈違うだろう〉〈やめろ〉〈なにをいってるんだ〉というような否定的な言葉が頭のなかで唐突に響くこともある。いつも野太い男の声で、それだけで正吉は怯えてしまう。


 通りがかりの人間の顔が急に歪みはじめることもある。


 これらはずっと子どものころ、小学校に上がるかどうかくらいの時期からはじまって、30代、40代となにくれと忙しく過ごしていた時期にはしばらく鳴りを潜め、そしてまた年をとるにつれてぶり返してきた。


 医者に相談したところ、それは名前をつけようと思えばつけられる程度の疾患ではあるけれども、そうしてカウンセリングなどをするよりも、むしろなにもなかったように対応して薬だけで対処したほうが穏やかに過ごせるだろうということだった。


 正吉も、とうに60歳を過ぎているのだ。騙し騙し生きていけばいいと思っている。


 たとえば、子ども時代に受けたなにかしらの精神的な傷がいつまでも治らないだけでなく、中高年になってさらに亢進するということがあるのだろうか、などとときおり内省してみることはある。


 正吉が考えるには、それは母親から受けたあまりに厳格で抑圧的な子育てが原因だ。そしてあまりに幼い子どもはある程度の年齢に達するまでそれを正しく自覚できないのが悔しくも悲しい、とヒリヒリとした痛みとともに感じる。


 川のほうへ向かう小道を見つけたので入ってみる。自分の背丈よりはるかに高く伸びたイタドリを搔きわけ緑のトンネルのなかを進む。この地域では若いイタドリを食べる家もあるらしかったけれども、正吉は食べたことがない。町から嫁にきた母親がそういうものを嫌ったからだ。


 水の音が聞こえてきた。右の足元近くを何かが斜めに横切ったような気がした。しかし、その上に葉を繁らせているイタドリは動かない。このあたりにいる野生動物はタヌキかイタチ、野ネズミ、大きなものではイノシシくらいのものだろうと思うけれども、それらではないだろう。慌てた感じがなく、なんとなく知的な感じがする。


 子どものころ、学校から帰ろうとしていると、校舎の陰から裏山の藪に飛び込んでいった黒いなにものかを目にしたことを思い出した。


 手を1度か2度、地面について坂を登り、藪に消えたそれは、間違いなく2足歩行の動物のようだった。それ以外には顔の造作などはまったくわからず、ただ全体が黒かったという印象しか残っていない。


 陽に照らされて白っぽく乾いた石が転がる河原に出た。水の音が空間を満たしている。流れが見える日陰を選んで腰を下ろした。


 右横から誰かの気配が近づいてくる。正吉は無視する。用事があるのなら話しかけてくるだろうし、また気のせいかもしれない。


 誰かはすぐ隣に座った。しかし静かで息づかいのようなものさえ感じられない。空気も動かない。ただ並んで腰を下ろし、同じように川の流れを見ている。


 そのままどれくらいの時間が経ったろうか。正吉は隣に座るそれがあの学校で見た黒い影だと気づいた。不思議に恐怖心はなかった。


 語ることはなにもない。たぶん語り合うことはできそうな気がする。そして語り合えば自分の心の秘密も開かれるような予感もあるが、いまさらそれをしてもどうにもならないと正吉は思う。見ないほう、知らないほうがよいことがこの世のなかにはあるのだ。


 隣にいる黒い影の思いもなんとなく伝わっているような気がした。影はあれからずうっとここにいたのだ。


 煌めく水のなかにはきっと魚が泳いでいる。素晴らしい俊敏さで己の生命と戯れている。


 正吉は膝を抱えて流れを眺め、耳を澄ませている。


〈許せない〉


 頭のなかで男の声がした。黒い影にも聞こえたはずだと思った。空は真昼の輝きを失いかけていた。

 

                             (了)



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