ショートショート 1分間の国 ◎【その夜を越えて】
クリスマスだというのに人通りは思いのほか少なく、「ツキシマドー薬局のかど」の女はすぐに見つかった。背中に届く黒い髪に白っぽいふわふわしたオーバーコート、茶系のハーフブーツを履いている。
血色の悪い年齢不詳なその女の丸い顔を見るなり、横川誉士夫は早くも後悔しはじめた。
「横川です。こんにちは」
声をかけられた女は驚いたように大きな目を上げて、それから小さく頭を下げ「ミカです」とかすれた声で返した。
つまらないなりゆきは決定的だな。
なにも望んでいなかったのにもかかわらず、しかも確たる理由らしいものもなく、誉士夫はただ落胆した。そしてそんな無聊を確認するためにだけわざわざこんなことをしている自分に呆れ、呵責の念にとらわれる。
もしかするとまだ十代という可能性もある。
「どこかでメシでも食べようか」
とりあえず、と付け加えかけたところでミカと名乗る女が素早く口を挟んだ。
「コンビニいかない? コンビニ寄ってなにか買っていったほうがよくない? ……、私シャワー浴びたいし」
確かにクリスマスの夜にたぶん親子ほど年の離れた男女が連れ立って街を歩いているというのはたいへん胡散臭いものだろうし、ちょっとしたレストランはカップルでいっぱいでなかなか入れないのではないか。彼女がいうなら誉士夫のほうに異存はない。
すぐ近くのコンビニで、ミカはいくらか無心すると断ったうえで、店のカゴにマスクと下着らしきものと化粧品らしきもの数点、それからサンドイッチと飲料を入れた。
「これだけでいいの?」
と誉士夫が聞くと下着と靴下と手袋を追加した。
誉士夫も手っ取り早く食べられるものを何点かと缶ビールをカゴに入れて一緒に清算をする。店の外に出てすぐに目にとまったホテルに向かった。
ミカは無言で誉士夫の陰に隠れるように歩く。なにごとかを口ずさんでいる。
「ハトムギポッポー、ポッポッポー、……」
「それなんの歌?」
「ハトポッポの歌、……」
違うだろう、と誉士夫はいいかけてやめた。そんなふうに覚えているのにはそれなりの、そしてあまり楽しくない理由があるような気がしたし、古い、きっといまは歌われていない歌だからだ。
ホテルは比較的落ち着いたビジネスホテルふうの外観だ。自動の入金機で泊まり料金の支払いを済ませる。ミカが横からようすを窺っているけれども、こうした場合、泊まりはミカにとって吉報なのだろうか、それとも悪い報せなのだろうか。
「広いね」
部屋に入るとミカはさっそくソファに座ってサンドイッチの封を開けながら見渡していう。誉士夫はおじさんらしく助六寿司だ。
誉士夫が腰掛けたソファの位置から、入り口から続く廊下の左側に並んでもうひとつのアーチ型の開口部が見える。そこを潜ると2つ並んだダブルベッドの足元がある。間取りでいうと1Lということになる。
誉士夫たちがいるLの部分にはソファセットのほか、テレビや冷蔵庫や造り付けのドレッサーが置いてある。大きな窓の、厚めのレースカーテン越しにひとつだけポツリと光の点が透けて見えた。
灯りのある場所で正面から見るミカはやはり若い。というより幼い。きっと20歳そこそこに違いない。
ラブホテル利用者は50代、60代が圧倒的に多いという記事を読んだことがあるけれども、それはきっと自分たちのような金がらみの関係の客なのだ。50代、60代のオヤジがそんなに妻とラブホテルにいくわけがない。
いったい自分はなにをしているのだろう。
また考えそうになるのを押しとどめ、誉士夫は買ってきた冷たい缶ビールを喉に流し込んだ。年末進行の編集作業で疲れ切った体に染みた。立て続けに2缶飲んで落ち着いた。
しかしこんな忙しさもきっと今年までで、来年のいまごろは会社もなくなっているだろう。
まさにミカはいつカゴに入れたものか、どこから取り出したのか、今度はショートケーキを食べている。
今日はクリスマスだった。
「エッチはしないから。ちょっと時間つぶし」
いいながら約束の金額をテーブルに置いた。セックスは否定しているはずなのに口にした途端にひどくゲスでバツの悪い空気が立ちこめた。ミカからの交渉メールにはこう書いてあった。
〈本番3諭吉ゴム有ホ別で〉
「ふだんはなにをしてるの?」
「まだ別に、……」
丸い顔が億劫そうに愛想笑いをした。顔は丸いけれども、黄色いセーターから出た首や手首などは細い。
「……、遊んでるんだ」
「いや、遊んでるんじゃなくて監禁されてたから、……」
こちらの顔色を窺う目つきになっている。
「このあいだまで監禁されてたんだよね。男に」
誉士夫はひどく驚いた。しかし同時に予想を遥かに超える展開に否応無く気持ちは弾む。
「監禁されてたって、それはちょっと尋常じゃないよねえ」
酔いが心地よく回ってきた。半信半疑で、しかし好奇心に駆られて根掘り葉掘りとは思われないように、しかし結局聞いてしまったところによると、ミカを監禁していたのは「友達の友達の知り合い」という男で、その男のアパートに閉じ込められていた期間は約1年間にもなる。この間にミカの体重は約10キログラム増えたそうだ。
「食事はちゃんとあったんだ」
我ながら間抜けな相槌を打って改めて目をやると、ミカはそれでも丸い顔を除けば痩せているほうだ。
「いろいろあったんだね」
これからはちょうどこの近くで営業している知り合いのバーでしばらく働くつもりだ、とミカはいった。
それはまた好都合、願ったり叶ったり、至れり尽くせり、とかなんとかまた仕方のないことをいいかけてソファの上にうずくまっているミカを見ているうち、危うく眠りに落ちそうになった。暖かさと疲れで緩んだ神経にビールが効いた。もう若くない。
「シャワー浴びたいんだけど、いい?」
うなずいて立ち上がったチェック柄のワンピース姿のミカを目で追って、それからバスルームからの物音を聞くともなく聞いているうち、今度はしっかりと眠りに落ちた。
目を覚まして、自分は見ず知らずの若い女の子とラブホテルに入ったのだと思い出すまで少し時間がかかった。耳を澄ませても音がない。バスルームの湯気の匂いはするが、聞こえていたはずの湯が流れる音は聞こえない。
咄嗟に持ち物を調べる。なくなっているものはなさそうだ。テーブルの上に置いた3万円は消えている。
シャワーを浴びて、もう用事のないジジイのいるホテルからとっとと帰ったのならそれは、それはそれでいい、とビールの酔いが残っている頭で考える。
たぶん眠っていたのは1時間半くらいだろう。
残りの助六を頬ばりながら見ると、隣の部屋の、2つ並んだベッドの奥のほうが少し乱れて膨らんでいるのに気がついた。
静かに近寄っていってみると、ミカが寝ている。回り込んで向こうの壁に向いた顔を覗いてみる。やはり眠っている。いや、これはたぶん眠ったふりをしている。
まあ、それならそれで、とまたしごく鷹揚に考えてソファに戻った。
人生いろいろある。今日が昨日までの終わりかもしれないし、明日からの始まりかもしれない。そして、ところがどっこいまだまだ死にそうにはない。
困ったもんだか嬉しいんだか。
立ち上がり、財布に1諭吉だけ残してすべての現金をテーブルの上に広げた。
〈気をつけて〉というのも、〈さよなら〉だけというのも、〈メリークリスマス!!〉というのも、まさか〈自分を大切にしろ〉なんていうのも陳腐だ。考えあぐねてホテルのメモ用紙に「あげる」とだけ記してその上に置いた。
今日はクリスマスだから気まぐれが発動したのかも。
ベッドのある部屋からはまだ緊張感が漂っている。ミカは寝入っているふりをしている。新しいパンツを履いて。
ひとりだけ先に帰る、とフロントに連絡して、通路に出て後ろ手にドアを離すと、少し間をあけて背中でオートロックが降りる冷たい金属的な音がした。
意外なことに、不意打ちのように、一気にやるせなさ、無力感が襲ってきた。そしてこんな世の中の網を潜るようにして生きているミカが羨ましくも思えた。
いい歳をしていったい自分はなにをしているのだろう。センチメンタルなこって。
そうだ。きっと新しい友達が欲しかったのだ、と誉士夫はこのときまた唐突にそう思った。
(了)
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