2024.8.13(ウエメセのアンチ)

 「口に対して顎が引っ込んでいる」ことを「口(くち)ゴボ」というらしい、というか、言ってる人たちがいるらしい。なんつうか、すげえ下品というか暴力的な言い回しだ。率直にいじめっ子のようなセンスだと思うが、美容界隈とでもいうのか、はしばしば悪気もなく人の劣等感をあおるようなことをするからとんでもない。ネットのオタクみたいな露悪趣味も大概ではあるが、露悪ですらなくというのがすごいというか、理解できない。まあ、まず社会自体に他者への無遠慮な視線があって、それが彼ら彼女らを生んだわけで、その逆ではないのだが、それにしても、と思う。
 「純ジャパ」とかもそうだよな。無自覚な暴力。だいたいにして、そういう言葉は「ふつう」の日本人から発せられている。

 「推し」とかもそうなんだけど、俺には言葉に対するなんかしらのこだわりがあって、その美しくなさみたいなのにことさら敏感である。そもそも文句を言うとき、スタートはその感覚で、理屈はあとからつけているような実感さえある。…「口ゴボ」「純ジャパ」「推し」…「モヤる」、「ウエメセ」! ヤバ!!!! ウエメセはやばい。気持ち悪すぎる。

 とくに「推し」とか「モヤる」あたりは特にそうなのだが、そのラベルを貼っとけば自分の感情とか考えはそれでおしまい、みたいな言葉が特に嫌いだ。そういう用法だから意味合いもすごくファジーで、それぞれが勝手に使っている感じも苦手。まあ逆にそういうあいまいさがコミュニティのゆるさを担保してくれて、ひいては多様性が…という意味ではいいのかもしれんが。まあ、自分はパラノイアなので気になるが、みんなそんなに気にしていないのだろう。べつに気にしてる方が偉いとかってこともないし。

 俺がチェンソーマンなら「ウエメセの悪魔」を食べて言葉そのものを消す。

 このあいだ友人と話していて気づいたけど、なんかしら気になる曲とかがかかったらすぐShazamして、Wikipediaでそのミュージシャンの略歴とかを調べる、っていうのはふつうではないらしい。自分はけっこう「調べ魔」なんだろうと思う。「検索魔」でもなんでもいいけど。たとえば、ギターについてあれほど調べるのは、ギターが好きってのもあるが、あれをどうしたらこうなる、ということが気になり続けるという偏執症なのだ。

 まあだからそれが当たり前だとは思わない方がいいということだな。昔は、ギターやるっつうのに何でそんなことも調べないんだ、とか、読みたいんだったら英語でもなんでも読んでみろ、できないならDeepL翻訳にでも突っ込んだらいいじゃねえかと周りになぜかキレているということがよくあったが、どっちかっていうと俺が異常者なのだった。

 先日「推し」について書いたのこっちにまとめちゃうか。(なにが気に食わないのか、という文なので、気になる人は読まないでほしい)

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…「"推し"がいることが救いになってなんとか生きていける人もいるしなあ」と思ってもいるんだけど、しかし自分は「推し」を「宗教」に置き換えてもほぼ同じことを言うだろう。

 自分の代わりに、がんばってる若いアイドルとかを「応援」する。架空の「彼ら/彼女らの青春」の支援者となることで、自分と、自分が彼らに代理させている世界を接続する。輝き代行。がんばり代行。誰しもが自ら輝かなくてはならない、自らの人生を意味のあるものにしなくてはならないといいたいわけではないが…いや、むしろそういう空気が社会にはあって、だからそれを肩代わりするビジネスも生まれるということだろうか。

 …「推し」概念そのものより、あれに付随するいろんな現象が苦手で、そっちの方が自分にとっては問題なのかもしれない。隣組の回覧板みたいな「フェス持ち物ガイド」、北朝鮮みたいに統率された観客、「経済回してる」とかいう資本主義的言い分(ってえか、なぜ「好き」を表明するだけではあきたらず、「立場」を欲しがるのか?)。そういうノリをいちいち共有すること。まあそんな人ばかりではないのだろうけど、わざわざ自分を顧客として訓練するようなことは自分はやりたくないなと思う。
 でもそれ(所属集団の価値観の内面化)自体は「推し」云々に限った話ではない。サラリーマン道徳とか、ネトウヨとか、あるいはリベラルにおいても「そのノリ」に自分を投じてるということはよくある。それがなきゃ生まれない勢いもあるし…。でも、労働者や消費者として自分を最適化しようってのは特にいやだ。自分から搾取されようとしているようで。

 全然違う話で、「職場のちょっといいなって思ってる人」みたいなのを「推し」と呼ぶような用法がある。「推し」概念は「性的な視線」が見かけ上排除されているのが特徴だと思っているのだが(違ったらすみません)、「性的に見てはいないですよ」といえるのは、対象と自分の間に埋めがたい距離("次元の壁"だとか)が存在するからじゃないのか。それがない相手と「推し/推され」関係は成立するのだろうか? まあ、その定義自体が俺の頭の中にしかないんでなんともいえないのだが、どうにも身近な人を「推し」とか言う人には欺瞞を感じてしまう。何かを隠蔽しようとしているように見える。
 この不信感については、こういう話を聞いたのが一部原因になっている。
…立川に、まあそもそもがカルト集団みたいなライブハウスの界隈があって、そこを仕切っている40前後の男が(大学生ノリをいつまでも続けたいバカばかり集めて高いイベント費を徴収している奴)、その界隈の20代の女の子を「推し」とか言っているうえ、その中に彼氏がいると知った途端にその彼氏に明らかに態度を変えて接するようになった…。
 まあこんなのは例としても極端というか、そんな奴と一緒にするな、という声が聞こえてきそうだが、しかしそういうやつがいわゆる下心の隠れ蓑として運用できるのもまた「推し」という言葉なのだと思う。「お気に入りだけど好意じゃないよ」…まあはたから見たらバレバレなのだろうが、当人は隠せていると思い込むし、一応そういうことになっているので周りも特に突っ込めない。こんな感じで、そういうどちらかというと後ろめたいような欲求に、この言葉が手軽に居場所を与えてしまうのが嫌だなと思う。欲望を持つなというのではなく、そのうしろめたさと向き合うべきだ。

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 今日ぼやきすぎだ。

 4連休だったけど結構体力使ったというか、これまでの疲れが出たのか、なんか半分以上寝つぶしてしまった。とくに従兄弟と飲んだ時にどうにも飲みすぎてしまって、翌日なにもできなかったのがけっこう痛恨。でも楽しくはあったけど。

 従兄弟に借りたベースを弾いて考えたこと。弾く前から奏法とかセッティングを検討しても仕方がない。自分の頭の中の出したいトーンがはっきりしてさえいれば、弾き方とか設定というものは勝手についてくる。逆はない。
 まあ、訳が分からないうちはいろいろ試すしかないし、自分の場合その蓄積が最近ようやく結実したというだけのことかもしらんが、しかし分かっていないのに「こう弾くのが正しいらしい」と四角四面にやろうとすると楽しくないし、疲れてしまう。
 しかし初心者というのは、たとえば理論をガチガチに勉強した人よりもずっとそういうことに拘泥してしまうものだ。ギターでいうと「Fを押さえられないから挫折した」というのがあるあるだが、そもそもはじめはF(というかバレーコード)なんか省略しちゃっても構わない。そうやって回避しているうちに手が慣れてきて、FとかBもいつのまにか普通に弾けるようになる。というかいまだにおれはBの1弦の5度の音は省略しているが、べつに誰も「あいつ1弦端折ったなあ」なんていちいち思わない。

 伊集院光のこんな話を聞いたことがある。
…立川談志に会ったとき、「あなたの落語がすごすぎて落語家を辞めました」と言ったらこう返された。「いい理由が見つかったじゃねえか。お前はそもそも落語をやりたくなかったんだよ。でもただ辞めるんじゃ自分に恰好がつかねえから立川談志を見てあきらめたってことにしたんだ…」まあ、真偽は知らないけど。まあ、そういうことだ。「Fの壁」も。

 …まあでも、話は戻って、結果的には「意味がなかった」ことであっても、それをやらないと「意味のあることにしか意味がない」ということに気付くことができない。のであれば、意味がないことをするにも意味があるということになる。
 でもそれをやらずにまっすぐ意味のあることに向かっていく異常な人も少ないがいるし、意味がないことをいろいろやるのが目的化して一生を無駄な機材や教則本を買うことに費やす人もいるから、何とも言えないところだが。

 まあ俺こそ、「意味のあること」がわかっていて、それにまっすぐ向き合わないといけないタイミングなんだよな。

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