2024.6.14(無能の)

 はあ~

 なんというかね、なんというか…

 先月あたりから仕事がなんかめっきりできなくなっちゃって、まあできないのかやりたくないのかでいうとほぼ同義みたいな感じで、しかし実態としてはやはり「できない」になっていた。メンタルの問題で、と上の人には伝えていた。しかし目に見えて鬱の症状が出ているわけではなく、仕事が「できない」間の自分の状態を彼らが見たとしたら「何やってんだ、サボってるだけじゃねえか」と怒られたことと思う。とはいってもその間、俺は実際に「できない」のでもある。実際仕事のことはずっと頭にあって、やらなきゃと思って苦しいというのもやっぱりあるわけで…このあたりは軽減こそすれ、計算ドリルを横目にベッドに横たわっていた小学生時代とほぼ変わりがない。変わりがないというか、アドラー的にいう「ライフスタイル」がその形で固着しつづけているのだ。元をたどれば不安障害なり発達障害なりあるにしても。でもこんな手ぬるいことが言っていられるのも自分が正社員雇用で、契約更新とかでマジで首を切られる心配が少ないからではある。もし契約社員で、こういうのが即来月とか半年後とかの生活に直結する状況であれば、俺は本当に、誰が見てもわかりやすく「この人は鬱病なのですね」と納得されうる状態になっているだろう。今の俺は、発達障害にしろ、抑鬱にしろ、今日的にいう「グレーゾーン」にいて、社会にお見せしてお許しを請うには微妙なラベルしかない。でも、それで苦しんでいるなどとは言いたくない。実際に鬱になってしまう方が圧倒的に苦しいに決まっているから。

 先日エゴについて書いたので、というよりはこの数日ぼんやり考え続けているのでまた書いてみよう。このところ瞑想を一日30分ずつやっている。ほんの入り口にすら立っていないが今のところ思うのは、やはり自分の意識というのは少なくとも二つのレイヤーがあるなということだ。今のところやっているのは多分一番ベタな、坐って呼吸に集中するというやつなんだけど、まず呼吸をしていること自体の意識と、もっと表層的な、いわゆる「思考」がある。前者は身体と言い換えてもいいし、後者は言語と呼んでもいいかもしれない。今ガイドにしている動画では、「呼吸に"気づき"続ける」と表現している。それに対して、「思考がさまよい出す」という。先日から物している「エゴ」というのは、このさまよう思考のことを指している。

 何度か書いていることだがギターを弾いていても同じ感覚がある。まさに呼吸に「気づき続ける」ように、自分と周りの音を聴き続ける。そこに「あの技を入れよう」「ビビらせてやろう」というのはエゴで、表層的な意識ということになる。野田せいぞ(オモコロ)のレポ漫画で、ずっと坐っていて足に激痛が走るようになっても、「感覚をチューニングする」ことでそれが気にならなくなるというコマがあったのが印象に残っている。というのは、瞑想のある段階として、先に述べた身体と思考のモードを切り替えられるようになるというか、その違いを見つめることができるようになるのではないかと思うから。まあ、ていうかまずはそういうことだと思うんだけど。

 先日書いた日記では怒りとか嫉妬とか劣等感とかをすべて「エゴ」としているわけだけど、実感としてそういう感情はだいたいが「さまよう思考」側のレイヤーであって(別にネガティブなものに限らないが、すくなくともこれらが位置するのはそっち)、身体側ではない。たぶん。「鼻が怒る」ってことはないから。

 あーでもJimmy Dawkinsとか明らかに怒ってる音出すもんな。まあでも、その領域とはたぶん違う話だ。

 うまく書けないので、やたらと紙幅を割いているが、まあ言いたいことは二つのレイヤー、それを「そういうもの」として切り分けて見つめる視点(3つ目?)があるよねってことで。いつもものを思う「自分」というのも自分そのものとは限らないというか、それは一部でしかないというか。

 単にそういう時期に読んでいるからでしかないと思うが、『私の恋人』の語り手である「私」と「ハインリヒ・ケプラー/井上由祐」の関係にもなにか連想していた。しかしあれは創作物であって、自分の深いほうのレイヤーはあんなに饒舌に語ることはないけど。

 連想ついでに言うと、『僕が僕であるためのパラダイムシフト』っていう鬱の闘病生活をつづったエッセイ漫画があって、そこで描かれた「本心」っていう概念。身体とちょっと違うかもしれないけど。「今自分は本心を無視しているよ、という警告のために鬱がやってくる」とか、「本心っていうのは3歳児くらい、いや犬猫くらい単純」とか、そういう記述があった。まあその内容はさておいて、やはり「本心」とそうでない意識というものを分けていることが気になる。

 いくつも例示しているけど話はずっとぐるぐるしている。

 4時間くらい空けた。さすがに上の話はもういいだろう。お昼に5つ下の後輩とご飯を食べてきた。自分で言うのもなんだが、わりと彼には好かれていると思うし、楽しい会話ができたと思う。福地さん面白いですよね、とか言われると、「やめて!!」となってしまうが、まあ嫌々言わせているわけではないだろうな、という感触…。

 Twitterにたまに回ってくる言説で、「新入社員の時にやたらと親しげにいろいろ教えようとしてくる先輩社員は100パーセント無能、地雷」みたいなのがある。たしか初めて見たのは8年くらい前、まくるめというアカウントが言っていた時のような。まあ俺自身そういうタイプで、仕事はちゃんとしてないわけで、とくにそれに反論もしないが、あまりにもな言い草だなと思う。てか、「無能」とか、「仕事できない」とか、なんであんなに乱暴で貧しい言葉が市民権を得ているのだろう。でもこのあいだは反論の引用がついていて少し救われたような気がした。「あんまり否定はできないけど自分はそのポジションの先輩に助けてもらった。こんな言いぐさはあまりにもひどい」みたいな内容だった。否定はできないんかい! でも、まあそうだなと思う。実際先の後輩とかは、ほかの「有能」な先輩がキリキリ仕事しているときに質問が投げづらくて、俺に訊いていると人づてに聞いた。まあそれはそれで、役に立っているならいいかなという気もする。ちょっと弱気な肯定のしかただけど。

 なんかまあ、しかし俺の「修行欲」は、やっぱりどっかで人生がガラッと変わらないかとか、自分の欠点が一気に改善されないかとか、そういう側面があるのだろうなと思う。そんくらい望んだっていいだろうと思うけれども!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?