2024.6.4(過去日記II)

 あ~。なんか前回の、すごいやる気だね。そういう気分の日もある。出社。天気がものすごくいい。気持ちのいい風が吹いて、溜池山王がまるで海辺かのよう。シーブリーズ。前にロバート秋山が町ロケする番組で、なんかナルシストっぽい兄ちゃんがやってるバーに入って、その兄ちゃんが作ったらしい「シーブリーズ」っていう曲に例の替え歌を乗せていってイジるシーンがあって、めちゃくちゃ笑っちゃったのを思い出した。「シーブリーズ かきむしった後しみる~♪」その兄ちゃんもかなり変な人ではありそうだったけど、「あーあーイジりやすい人見つけちゃって」みたいなスタジオのコメントが面白かった。何の話だ。

 しばらく体重を気にしていて、少し落とせていたんだけど土日にまた戻っていた。酒~。チートデイとしては週末3日間は多すぎる。4日進んで3日戻るのでは、そりゃ落ちない。この週末は……金曜に彼女と、その友達のライブに行って、なんかピザとか食べて、翌日のランチはなんかちょっとフレンチみたいなところ。その夜はベース取りに来た友達とラーメン食べちゃった。日曜日の昼飯はなんだったか。友達の読書会に行って、引くほどうまいピザ出してもらって、夜しこたま飲んでしまった。総じてすごく楽しかったけど、体重は2キロくらい増えてた。いいなあピザ焼けるの。マジでうまかった。

 楽しい! という時間を最大化しなければみたいな意識があるかもしれない。酒でも飯でも、楽しさ値をMAXにするためにおいしいものはできるだけ食べてできるだけ飲んじゃうみたいな。貧乏性というか、なんだろうね。小・中学生時代、まあ友達の家に遊びに行くとかあったけどなんかこう映画を見に行くとか遊びに行くみたいなのがあんまりなくて、特に中学時代は直帰してエースコンバットをひたすら練習するみたいな日々を送っていた。だからなんか、三つ子の魂百までじゃないが、なんかしら友達とのイベントみたいなことがあると、どっか切迫感みたいなものが脳裏によみがえるのかもしんない。そうでもないかな。まず、食うのと飲むのが好きすぎる。

 今週末は山梨にいく。なんでも知人のバンドのギタリストが腱鞘炎になり、その代役というかサポートで出てほしいとのこと。普段なら断っているのだが緊急で福ちゃんくらいしかいないんだよねっていう殺し文句があったのと、山間の宿で温泉とご飯と宿泊ついてお金は一切払わなくていいって条件があまりにも魅力的すぎてぐらっときてしまった。正直ライブはやりたくないが温泉は行きたすぎる。
 それを師匠にいったら「最近ブルースにちゃんと向き合えてないんじゃない?」とつっこみを食らった。完全にその通りだったので、すいません……と思った。大体のことがバレてしまう。この小旅行自体がどうこうというのではなく、完全に俺はこの2週間くらいをぼんやり過ごしていたというか、まあそのまんまちゃんとブルースに向き合っていなかった。あのブルースマンのギターのセッティングはこうじゃないかとか、弾き方こうじゃないかとか動画で見て「研究」みたいなことはしていたし、毎日ブルースを聴いてもいたし、まだ聞いてない音源を探したりもしていたが、そういうのは全部枝葉であることを本当は分かっていて、故に没頭していたのだ。こういう気分の問題はどうにか克服しておきたいものだ。今回の場合は、仕事と向き合うことを最近かなり避けていたので、そのモードがすべてに影響していたといえそうである。だから今日はさっさと片付けなければならないのだけど、まず日記を書いている。

 しかしまあ、「仕事」に対する美学みたいなのは嫌いで避けてきたけど、実態として仕事がうまくいってないと音楽すらあんまうまくいかなくなるということは、あんがい仕事がどうなってるのかっていうのは自分の精神に分かちがたく結びついていることなのだろう。そもそも俺の最大のコンプレックスは「仕事」コンプレックスだ。
 「仕事」と「労働」は別のものかもしれん、というか、まああえてそう定義するとして、自分は「労働」は憎んでいくが、自分の愛せる「仕事」は見つけなければならないのかもしれない。自分の時間と体力を擦り減らす対価としてお金をもらうだけの労働と…と、仕事について書こうとしたけど、自分にとって理想的な「仕事」というのはそもそも不明瞭みたいだな。まあしかし、たとえば人に喜んでもらえるとか、何かの役に立つとか、そういう無形のフィードバックがあり、しかもお金にもなるという、それがうまく成り立つのがいい「仕事」であるような気がする。たとえばおれは音楽をやっているけど、もちろん金にはなってないし、誰かに影響を及ぼしてもいない。話は戻ると、それでも向き合わなきゃいけないのが自分にとっての音楽であって、仕事というものはもう少し短いサイクルで結果が出続けるもののようである。

 こういう仕事論みたいなことを書くのは抵抗がある。まあ高校くらいの時まで父の買ってきた自己啓発本みたいなのを普通に読んでいたとはいえ。なんというのかな。いいこと書いてても、そこで目標として取りざたされるのは資本主義的な成功であることがほとんどで、それがいまいちマッチしなくなった。まして西村博之や堀江貴文みたいな、バカを出し抜いてやれみたいな思想は論外だし。

 坂口恭平もよく「仕事」という言葉を遣うが、あの「仕事」はなんだかさわやかだ。自分の作品に対してお金を払う人がいるから、売る。

 先日友達に歌い方をレクチャーしてもらった。身体を共鳴させるやり方。正直、俺は身体がでかいし腹式呼吸も最初からできたので、その辺をちゃんとやんなくてもそこそこでかい声は出てしまっていた。で、大学のころ何の練習をしたかというと声を変えることで、そのせいで喉を使う変な癖がついてしまった。そういうのを一度リセットする意味でこういう基礎的な発声をやりなおせたのはよかった。

 その喉の癖があるせいで声の倍音も死んでいたし、音程も正しく取れなかった。変なやり方でやってるからレンジが狭くなり、その中でニュアンスを再現しようとするためにどうしてもフラットしてしまう。発声をちょっとやり直しただけで音域が広がってファルセットのやり方も変わったのが驚きだった。でもそもそも最初はできていたのかもしれない。実家の部屋でビリージョエルとか歌ってたもんな。

 今日も帰りに一時間カラオケで練習して帰ろうと思ってたが、今日19時までかあ…。

 先日近くの自家焙煎でコーヒーを出してくれるお店の喫煙所でタバコを吸いに行くと先客のおじさんがいた。見慣れない煙草を吸っていたので「その煙草なんですか?」と訊いてみたことから会話が始まった。どうもグルメらしくて、このへんだとあそこがうまくて…とか、そんな話を15分くらいした。なんか品のある人で、国文学ゼミの先生を思いだした。古くておいしい店が好きだということで話がずいぶん合った。

 俺がいい歳の男ということが大きいだろうが、おじさんと話すと案外いろいろ知れて良かったりもする。まあでもうまいメシ屋とか、そういうのばかりではあるけど。これが女性だといろいろめんどくさくなってしまう場合もあるわけだ。

 そういえば、俺は自分がマンスプレイニングしてないかとか、セクハラみたいなこと言ってないかとかっていうのを非常に恐れている。たとえば女性が自分の話をうんうんと聞いてくれてるときとかは怖くなって話を終わらせたりしてしまう。これは自分がフェミニストだからというよりは、もともと自意識過剰で女性不信的な性格が長くあったことが原因のように思う。もちろん相手に嫌な思いはさせたくないんだけど、たぶん根本的には自分が女性に「接客」させていると思われるのがいやなわけで、まあ自分本位ではある。それにそういう恐れがあるのは、ほっとくとマンスプレイニングとかするタイプの人間だと自分で感じているからだろう。

 こういう自己開示を俺はよくするけど、別にしなくていい時はしなくていいんだなと思う。ただの癖だから。

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