2024.8.30(在宅日記)

 朝からすごい雨だ。
 八月中はフル出社、ということになっていたのだが、鬱で会社に行けないことがあると素直に話したら上司は意外なほど理解を示してくれ(まあその案件では俺の同期含め何名もが退職したり休職したりしているし、人員は基本的に不足気味なので辞められるよりはというのはあるのだろうが)、九月からはデフォルトよりは少し出社を増やすがきつかったら在宅にしてよい、という風にしてもらうことができた。
 いろいろ優しい言葉もかけてもらったりと申し訳ない気持ちはあるが、しかし向こうも仕事でやっているというのもある程度分かっているので(ある人員について「コミュニケーションや仕事ぶりはあまり期待できない」と、その人が論評しているメッセージの履歴がどういうわけか共有サーバに上がっている。なんで?)、まああまり後ろめたく感じることもないかとも思っている。というか、そういうことまで気にしているから余計しんどいわけなので。

 ふだん出社の時に暇つぶしで書いているので家にいるときまではあまり書かないというのが最近の流れだったけれど友人のnoteを読んだらなんか書きたくなってきたのでテキストエディタを開いた。自分がこういう日記ばかり書いているからだと思うけど人の文章にしてもわりとなにげないのが好きだ。そこから自然な感じで思考が展開していったりするのが。でもこれは単に俺の好みというか、あまり難しいと理解できないから、というのもあるけれど。

 さっきJackson 5の「I Want You Back」のオリジナル・ギタリスト(スタジオミュージシャン)があの曲を弾く、という動画をたまたま目にした。Louie Sheltonという白人のギタリストで、そのほかにもそうそうたる面々と名演を残している人だった。いわゆるレジェンドだが恥ずかしながら知らなかった。俺はそういうスタジオミュージシャン系の人、そもそもウェル・メイドなポップミュージックというのにややうといのだ。
 まあ、話は戻って、その動画。カラオケに合わせてその人があのイントロを弾いているのだが、あたりまえだがまるっきりあのままで感動してしまった。名演というものはYouTubeとかに国内外問わずコピー動画が上がっているものだが、本物とは全然違うわけで、原曲を聴いた時の「あの感じ」がそのまま聴こえてくるのだ。
 でもギターを始めたころはむしろ「弾いてみた」系の動画をよく見ていた。それは基本的にカメラが定点なので見やすいというのが第一ではあるけど、たぶん「音楽そのもの」に高度に溶け込んでいる、というか一部をなしているそういった原曲よりも下手というか浮いているのが常なので真似するうえでは都合がよかったのだと思う。まあだから「弾いてみた」を好んで観る人、動画を撮る人の気持ちもわかるんだけど、ギターを弾いて十一年目になる今、やはりやるべきことは音楽であって、ギターを「見せる」ことではないだろう、と思うようになった。いまだに観るときは観るが、「ああこれは全然違うな」と思うことが大半で、ただどのポジションで弾いているのか、ということだけをチェックするにとどめる。

 きのう少し絵を描こうとしたがなにを描いてよいかわからなかった。あんまり「描きたいもの」がない、といつも感じてしまう。でも日記でいうと、「書きたいこと」なんて最初には特にない(ある時もある)わけで、書いているうちに思いつくほうがむしろいいんでねえのと考えてもいる。でも絵となると、なかなかそうもいかないのだ。このへん、最近よく書いていることでもある。

 こういう時はツールを変えてみるのが良いかもしれない。たとえばいまは無印の200枚綴りのメモ帳に一つ一枚使って描いているが、A4くらいのコピー用紙を思いつくさま埋めていったほうがいいのかもしれない。白紙に向かって「描きたいもの」を描く、失敗したら一回それはなかったことにして、また次の白紙に向かう…そういうのだと、日記でいうところの「書いては消し」の状態になってしまう。毎回ゼロから始めなくてはいけないわけだ。とにかく頭の中から紙に出してしまうこと。そこから次の描きたいものを見つけること…これは前にラジオで、文章を書いてると直前に書いたものから影響を受けてまた書くというループに入れる、コールアンドレスポンスだ、といったのと同じような理屈というか展開ではある。

 とりあえず白紙をA4のバインダーに挟んでみた。

 仕事なんかでよく「ヒューマンエラーを減らすには注意するんじゃなくて仕組みを変えたほうが良い」みたいなことを聞く。これはエンジニアの会社だから特にそうなのかわからんがまあ正しいことだろうと思う。同じことで、続かないなら別のやり方を試してみる、インスピレーションの湧きやすい構造を作るという考え方。しかしそればっかやってるといわゆるライフハック的になってだるいが、そもそもライフハック的なるものをおれは忌避しすぎてきた。自分にとって忌むべき「ライフハック」と、自分なりに善く生きるための「工夫」は結構違うような気がする。「ライフハック」的なものは何かというと(すごく主観的に言えばでしかないが)、すでにある型に自分をはめこませるための作業というか、なんかそういうことで嫌いなんだろうなと思う。そうではなくて自分なりにどういうのがやりやすいのか自分に訊いてやることは無駄にはならないはずだ。

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