2024.5.27(過去日記)

横浜

 金曜、飯食ってから友達と銭湯、そのあと(飯食ったのに)四文屋にいったあと、さらに駅前の広場で調子よく飲みすごした。土曜は師匠と天下一品に行ってこってりに小ライスまでつけたので、こりゃ夕飯は控えめにしないとと思ってけど、会社の辞めた後輩から飲みましょうと連絡が来て、また四文屋に行ってしまった。日曜は昼こそ抑え目にしたが夜は父の誕生会で暴食。母がふるさと納税で頼みまくった「賞味期限三日以内の良い肉」やら、鮪や鰹の刺身やら、どっかで買ってきたピザ、銀のさらの寿司、煮物、つまみにサラミ、チーズ…。まあ、実家のごちそうってそういうもんかもしれないし、いろいろ準備してくれたのは感謝しかないが、貧乏トレーダーが初めて株を当てた日の晩餐みたいだと思った。とにかくうまいものを食いきれないくらい並べる。もちろん何も言わず、ああ体重増えるなと思いながら片付ける。目の前の食べ物はきれいに食べきれないと落ち着かないというのはADHDあるある、みたいなツイートを思い出した。なんでもそれかい。

 横浜で開催だったから、行く前に西口のディスクユニオンに寄った。キャバクラとかきな臭い店ばかりが並ぶエリアの、薄暗い雑居ビルの中にある。落書きだらけの階段を見上げると、ここに通っていた高校時代のなんとなく不安な感覚がフラッシュバックする。日吉の高校から地元に帰る途中の乗換駅が横浜だった。だいたい、ギター屋を3軒回って、CD屋や本屋を見て、ラーメンとか食って帰っていた。今思うとちゃんと青春っぽいというか、音楽オタク誕生前夜というか。ライター的な素質のある友達や先輩が、古本屋に通ってはsnoozerを買っていたみたいなことを自分もやっていたのだなあとか思う。

 そういえば3.11のときもその一角のなんか嘘っぽい家系ラーメン屋で(トイレに宗教のポスターがある)、当時の友人と食べている最中だった。学生時代の友人ってオタクみたいな人ばっかりだ。高1のときのクラスの友達は、まんま「オタク」のグループだった。でカラオケとか行って、周りがボカロとかアニソンを歌っているなかで一人だけローリングストーンズの「悪魔を憐れむ歌」を歌うという、そういう自意識の高校生だった。三つ子の魂百までで、思えば幼稚園の頃から自分の立ち位置ってそうだったのではないか。浮いているが別に孤高でもなく、コミュニティの周縁部にいる。

 土曜。後輩と飲んでる写真を同期の女の子に送ったら「私も行くわ!」ときたので、三軒茶屋のマクドナルドを待ち合わせ場所に指定したら(駅前で目立つからちょうどいいのだ)「席取ったほうがいいよね?」と返ってきたのにはショックを受けた。おい! 初デートにサイゼ使うオタクかい。それで先述の高校時代の友人たちを思いだした。大学3年くらいの時にそのグループでの同窓会の連絡が来て、行かないでいたらあとでサイゼリヤで撮った記念写真が送られてきてぎょっとした。全然いいけども! 当時はびっくりした。それでツイートして、「性格が悪すぎる」と周りを引かせた。その節はすみません。

濁流とよどみ

 前々から、SpotifyやApple Musicといった何でも聴けすぎるサブスク配信サービスにちょっと反動的なものを感じていて、MP3プレイヤーとかに自分が購入したCDを取り込んで聴ければそれでいいんじゃないか、と考えていた。まあ俺の使い方も一般的ではないのだろうが、あるアーティストについて知ったら、何枚かを資料としてとりあえずライブラリに保存するような癖があったせいでライブラリが膨大になり、結局聞きたい時はいちいち検索して聴くというのが普通になっていた。
 というのと、iTunesライブラリにCDを取り込むと勝手に利用制限がかかって別アプリで使えなくなるのが気に食わなかったのもあって、iTunesでもSpotifyでもない買い切りの音楽プレイヤーアプリを導入した。CloudBeatsというやつ。これが案外よい。自分の把握できる範囲でだけ音源を入れて、それこそiPod的に使える。

 電子書籍に置き換えて考えるとわかりやすいかもしれない。定額読み放題のサービスがあったとして、気になった本を次々入れていくのになんか疲れてしまったみたいな。とても読み切れないし、どんな本を入れたかも把握しきれない状況。であれば、自分で一冊一冊購入した本を部屋に積んでおいた方がまだしもいい。

 大学時代、ゼミの先生の研究室に行くと、当然ながら書棚に大量の本があった。あるとき「これって全部読まれたんですか」と素朴に尋ねたら、「とんでもない! 妻もよくそう言うんですけどね、調べ物のために置いておくんですよ」と返ってきた。なるほどねえ。まあ、研究者の蔵書と音楽ライブラリの話を単純に比較はできないが、しかし自分でフィジカルで購入する以上は頭の中のインデックスの強度がある程度高いといえるはずだ。そういうものを集めた情報環境というか、ビオトープ(『積読こそが完全な読書術である』より)的な自分の島を作るのが大事なのかもしらん。サブスクで気になったもの、レコメンドされたもの、を次々1タップで追加していく作業はそのまま情報社会の濁流に流されているような、そんな感覚だ。……まあ、そもそも普通の人はそんなにもガンガン追加していくようなことはしないのかもしらんが。

自己言及的イージャン

 ラジオの二回目を公開した。反応がないんであまりわからないんだけどWeb版からいいねしてくれる人がぽつぽついるあたり知り合いが聴いてはくれているらしい。
 初回はわけのわからない投資系やらダイエット系やらのアカウントから20件もいいねがついたのだが、2回目は嘘のように落ち着いた。これはどうも「はじめての投稿」的な欄がトップページに設けられていて、そこに載るとそういう人たちが一斉に群がるからであったらしい。サークルの新歓みたいだと思う。とにかく右も左も分かんないようなやつに声かけてフォロワーにしてしまえという。そういう連中を粛々とブロックしながら、stand.fmを使うことにしたのは間違いだったかと思ったものだが落ち着いてよかった。
 その手の収益化みたいなことをやってる人たちって、このサービス名を「スタエフ」と略す。その語呂というかセンスの悪さにすら、そういう人たちの品の悪さが現れているような錯覚さえする。なんでも最初から商売、最初からビジネス、それが正しく社会的な在り方、そういう思い込みをした人の下品さ。それなら淡々とサラリーマンをやっていてほしい。
 しかし、社会に対してハックをかけるようなつもりで「普通の稼ぎ方」と違うことを始めたのだろうに、毎日やっていることはフォロワー増やしのための無意味な「いいね」っていうのがなんだか気の毒だ。自分で自分にブルシット・ジョブをやらせているようなものじゃないか。

 友人の一人が「イージャン精神」の話を聞いて音楽をちょっとつくってみた、と書いてくれてとてもうれしかった。もちろんこの概念は坂口恭平が『継続するコツ』で書いていることの縮刷版ではあるのだが、「(いったんこんなんで)いいじゃん」という標語、気の持ちようのテクニックを打ち出しているのは俺なりの応用である。まあそれも向井秀徳から借りているのだけど。
 ラジオ内でも繰り返し言っているけれども、「いいじゃん」と割り切ってさっさと完成させてしまう、あるいは未完成であろうと公開してしまうこと自体訓練が必要になる。それが初めからできてしまう人もいるにはいるかもしれないが。大体の場合、人からどう見られるか、自分の思うかっこいいものができているか、もっとこうしたほうがいいんじゃないかという思いでがんじがらめになって苦しくなり、こんなものを抱え続けるくらいならいっそと削除したりしてしまう。その衝動を一回耐えなくてはならない。下手でも、Instagramに投稿した翌日見返してみると案外悪くないところが見つかるというような経験を重ねていくとだんだんマインドセットが変わってくる。
 まあそれでもなかなかうまくできないものは俺にもいっぱいある。たとえば曲を作って出すとか。自分が一番やっている音楽という土俵で、センスや技術をジャッジされうる「作品」を投稿するのはどうしてもきついものだ。だから大学時代は「これは内輪ネタの変な曲です」という隠れ蓑を使って、ふだん全く聞かないようなジャンルの曲をわざと作ったりしていた。

 そういえば前に千葉雅也が、「詩において韻律があるというのはそもそも照れ隠しだ」というようなことを言っていた。なんとなくわかる。そういうゲームに興じているという建前と、自分が自分としてそのまま出る前にルールというフィルターを介すことができる安心感。……昔サークルの同期たちと、それこそラジオ的に昔話をするという「配信」を一回やったことがあった。そいつが配信者にはまっていて、自分でもやりたいといっていたからうちで録ったのだ。この時に俺が打ち出したテーマは、「取り留めもなくしゃべっていくことであのころの部室の空気感を再現できれば」ということだった。こういうコンセプトというか理由づけ自体がいわば照れ隠しだった。
 さらにさかのぼれば、「ビートルズ縛り」のバンドを、アレンジをやったり、ライブの完コピに徹したり、ロックンロール曲やコーラスのきれいな曲を集めたりといった「コンセプト」を先に立ててやってたのも同様だったろう。そしてそういう「対処」の仕方は(本人から聞いたことはないが)確実に先輩のやり方をまねている。
 その先輩くらいになると、ロックンロールバンドをやりたい、でもロックンロールをいい年のそれなりに演奏の達者な奴が大真面目にやってたら見るに堪えない、だから下手だけど顔の良い2年生にドラムを叩かせ、方向は合ってるけど普通に下手な留年1年生(俺)にギターを弾かせる。それによって「下手なガキが古臭い音楽を一生懸命やってる」という、聖域みたいなものを獲得しようという……そのくらいの「プロデュース」をやっていた。まあ、本当に彼がそういう風に考えていたのかは知らない。でもThe StrypesやLocksleyの「ほつれ」ということはよく言っていた。ガキが一生懸命身の程知らずにカッコつけてるさま。それにまとわる愛嬌と輝き。それを出せたかは知らんがそのバンドは確かに下手だった。でも楽しかった。その先輩とはいまでも仲よくさせてもらっている。

 話戻ると、「イージャンラジオ」って命名していることも完全にそれだ。「イージャン精神」を涵養しましょうという「コンセプト」で、それを収録して公開すること自体が「イージャン」の実践なんですよ、だからおもしろくなくてもいいんです、だってそれが「イージャン」ですから……と、コンセプトであり、エクスキューズであり、という。そういうところがすごく自分だなと思う。「イージャン」という言葉が引用なのも、自分の造語より恥ずかしくないからだ。まあでも気にいってます。イージャンラジオ。「元・犬猿ラジオ」とかにしなくてよかったと思う。ネガティヴだし、すべってるし。

スパイス/グルーヴ、カレー/ブルース

 日本で音楽やってるとたとえば「グルーヴ」という言葉が全くわけのわからない説明をされていることがある。「フィール」でも「ソウル」でも、「ブルース」でもいいが、まるで幽霊の話をしているかのようだ。足が3本あった、いや足がなかった、透けていた、いやはっきりしていた……。
 Threadsではカレーにたとえてみた……カレーを食ったこともない奴が、カレーの作り方だとか、カレーとはこんな味のものだとか、インド人が作ったものだからインド人の歩き方を見れば作れるとか、インド人のDNAがないと作れないとか、料理をやるからには絶対にカレーを作れなきゃいけないとか、もっともらしく話して、YouTubeで飯の種にしている。
 インドカレーの作り方は、インド人から教わるしかないのだ。もっともおれとてインド人(ただしカレーの歴史を変えた、レジェンド・インド人だ)に作り方を教わった日本人(この人はインドのトップ・レストランのひとつでシェフをやっていた)から教わった日本人から教わっているわけなので偉そうなこともいえん。しかし最近はカレーを作れないインド人もいるようだけれど。しかしいい加減、デリーに本物のカレーを食べに行かんと。たとえすぎてマジで俺がカレー大好きみたいになってるな。
 まあこんなことを書いているけれども、こんなことを言うのは俺が本場のカレーにあこがれて(まだそのたとえが続くのか)同じものが作れるようになるためにやっている人間だからで、言ってみればほかの人にとっては知ったこっちゃない。そもそも、スパイスが入ってなくても美味しい料理はたくさんある! ただ、カレーに興味もねえくせにスパイスの配合はこうだとか、人にもっともらしく説教したり金取ろうとしてるお前! お前がなんでこっち来てる面するんだよ、お前タピオカ屋だろうが。という話。
 そんなことが起きるのも、イギリス人がインドカレーを簒奪して、魔改造して、海軍の糧食にして世界に広めてしまったせいでもある。いまや日本でもカレーといえば小麦粉やラードの入ったルウで作って、ご飯にかけるものである。まあそれが好きというのはいいでしょう(たとえ抜きでカレーの話するなら、俺も好きですよ)。イギリス人のおかげで世界にその名を知られるようになったともいえましょう。でもそれは本来的に「カレー」ですか!? おいしいにしても、別の料理じゃない!?
 ……もはやわけわからなくなっている。自分の言葉に踊らされるとはこのこと。でも、こう書いてると、「別にいいじゃん、欧風カレー美味いんだから」「あの蕎麦屋のカレーは食べたほうがいいよ。一世を風靡したから」とか言われるその温度感が客観的に見えてくる。俺はただのオタクなのだ。しかもインド人ではない。プロのシェフでもない。俺は松屋のカレーを食っては、同席する人に「こんなのはカレーじゃない」と言っているめんどくさい人である。周りが困惑するのもわかってきた。何でこの人こんなに怒ってるの? って。そう考えて初めてわかるということは、俺は相当この考え方を内面化しているのだろう。
 まあこんだけ書いたし、Threadsでも強い言葉で書いたりしたけど、そういうときめちゃくちゃとさかに来てるかっていうとそうでもない。なんか、トピックとしてそういうことに触れて、文体としてそういう言い方を採用してるという部分も正直ある。
 なんか、まあ偽・カレー教師みたいなのに怒り続けても、あるいは直接抗議しても、俺が頭がおかしい人になるだけで何も好転しないのである。できることは粛々とカレーの研究をして、これはデリーで食べた時と全く同じ味だ、と思わせるようにがんばるしかない。それがウケて儲かるかとかもあんまり関係ない。



 書いた日記を読み返していて、たまにはと推敲してみたら、トピックがわりとはっきりと4つに分かれていることに気が付いた。分かれているというか、全く関係ない4つの寄せ集めになっているというか。いつもだらだらと続けて、それがなんならいいんだみたいなくらいのことを書いているけど、読みやすくしたくなったらそれをやるに越したことはない。で、それぞれに適当なサブタイトルをつけてみた。1時間続いたセッションを編集して4つ分の曲にしたような感覚だ。カッコつけすぎ? いや、でも普通に自分はセッションとか実際よくしてるわけだから、別にカッコつけとかでもないな。まあともかく、ふだんより読みやすさを意識してみたつもり。ただ、あらためて強調したいのは、千葉雅也も言っているようにまず思いつくまま書いて、編集は後からやれということだな。

 最近音楽のほうで意識していることなんだけど、「何も考えずに弾いた音」が正解で、「意図をこめた音」ってのは大体にして間違いだ。うるさいというか、我が聞こえてくる。それは文章でも言えるかも。書きながらあまりに、「操作」しようとするとどこかぎすぎすしてはこないか。だいいち苦しいはずだ。勝手に進みたがる文章の手綱をぐいぐいと引っ張りながら書くっていうのは。

 そんな感じ。

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