2024.8.26(エピックディック)

 EBCDICっていう文字コードがあるんだけど、「エビシディック」はまだしも「エビックディック」って言う人がたまにいる(会社で)。ビックディックはダメでしょ。

 とつぜん鈴木ザ煉獄丸のことを思い出す。なんで? と思ったが、どうもそれは彼が「BIGDICK」っていう言葉の含まれるネタツイをしていたからだった。鈴木ザ煉獄丸、生きてるんだろうか? ブラック企業でボロボロになっているという自虐が持ちネタだったんでマジで亡くなってしまったのかもしれないが…そうではなく単にTwitterでウケることのむなしさに気づいただけなのかもしらん。わからないけど。しかし昔そういうネタツイートをしていた人を6年ぶりくらいに見にいったら、Twitterで作った友達向けのなんてことないツイートしかしなくなってるというのはよくある話だ。逆に全く芸風を変えずに何かをくさし続けている人もいるが…(大丈夫なのか)

 坂口恭平の『躁鬱大学』を読んでる。何かと「あーわかる」ってこともあるし、これはちょっと(自分とは)違うなあと思うこともある。まあいつものごとくだが自分にとって重要に感じることを取り入れていけばいいわけで、気楽に読めればいい。躁鬱、発達障害、ADHD…って、たとえば「発達障害だと思って診断受けたら発達障害じゃなくてただのカスだったことがわかった」みたいなネタツイがあるけど、まあこれなんか典型的なというか…「症例」に完全に当てはまらないと不安みたいな心の動きがどこかにありがちだ。既に存在するラベルに自分を合わせていこうとする。INFP診断とかいうのもそうかもしれない。実際のところは現象があって理論があり、人間があってそういう「病気」(あえていうが)があるわけで、逆はない。まず自分がある、苦しんでいる、そこでしかないわけで…

 話がずれた。上に書いたことは『躁鬱大学』の内容とはあまり関係がない。

 まあ今のところ大事だなと思うのは「躁鬱人」たる自分をマジョリティである「非躁鬱人」のルールに適合させようとする("ちゃんと"しようとする)から窮屈になるわけで、そうではなく「躁鬱人」のやり方で自分を運用すればいいのだというところ。「躁鬱人」は少数派ではあるが、ふつうにいるわけで、それは病気というより一つのタイプである…非躁鬱人の「ふつう」に合わせることが「正常」で、それが苦手な自分は「異常=病気」である、という発想を一回遠ざけておきたい。

 「躁鬱人は退屈すると鬱になる」と言っていた。そうかもしれない。あと、自分に「一個のこと」をやらそうとするのはあまりよくないそうだ。たとえば「俺はブルースの人間だからブルースしかやらないぞ」みたいなことを俺は思いがちだし躁鬱人(坂口)もそうらしいんだが、そうするとかえってできないと。かえっていろいろ無節操なくらいにやってた方がいいのかもしらん。じっさい、「練習しなきゃ」と思っているときほど練習はプレッシャーになってしまう。それよりむしろ本読んだり絵描いたりしてるときのほうが(そういうときはそもそも調子がいいというのもあるが)練習もよくできたりする。

 自分は(「普通」に照らし合わせて)おかしいんだ、というところから出発する必要はないのかもしれん。たとえば自分はツイートが多すぎるしそれに悩んでもきたのだが、本当はなんかしら言い続けてる方が自然なのだとも思う。友達といたらわざわざツイッター開かんし。「よくそんな書くことあるね」と言われるがまあ四六時中なんかを言っていられるのは自分の個性かもしらん。まあ最近落ち着いてはきているが。

 眠い。コンサータを飲んだ上にレッドブルも入れたから気持ち悪い。心臓がバクバクするが、これが身体がやりたくないこと(=仕事)を拒絶しているからか、二種類の薬品を身体に入れたせいなのかがよくわからない。そういうのを飲むときはやりたくないことをやらなきゃいけない時だからどっちともいえない。いずれにせよやりたくないことをやるのは身体に毒なわけだ。「やりたいことしかできない」のも躁鬱人の特徴だという。それで窮屈になるということが一番ダメだから。しかし小学校みたいに、一時間おきに時間割があって、別に好きなことでなくても勝手に次々いろいろやらされるというのは案外悪くないらしい。躁鬱人はとにかく、何かをつぎつぎやっている方が体質に合うからだという。『生きのびるための事務』で書かれている円グラフみたいに一日でやることを決めようというのもそういうことだ(というか全く同じ話をしている)。

 最初に書いたことと矛盾するようだが自分を「躁鬱人」と仮に見てみることで前向きに考えられることもあるみたいだ。さっき書いたのは、「できない」自分を病人として、社会への理由立てをするためのものだったが、こっちはもっとポジティブである。まず社会によって自分の見方は後ろめたいものにゆがめられていて…それを外面でも内面でも最適化することで自分の置き場所を規定しようというのが前者で、たんに自分の性質を把握していきたいように生きられるようにしようというのが後者なので、本質的には全然違うんだけど。

 友達が愛猫の絵を毎日描き始めた。彼女のユーモア感覚と猫への愛情が合わさってとてもかわいい。そういえばおれも日々描こうって決めてた時期もしばらくあったんだよなあ。日記は続いているんだけど、なんで絵は続かなかったのかな。と思ったけど、やっぱりあんまり描きたいことがないからかな。
 俺は小・中学校の頃は絵を描くのが好きで、まあまあ上手でもあったのだけど、過集中状態でできるだけ精密に模写をするっていうのがふつうで、いわゆるオリジナルな絵とかはあんまり描いたことがなかった。当時から「描くからには何かを表現しなくてはならない」という思い込みがあったのだ。これを下すための論理も今は持っている気がするが、しかしいまだに尾を引いている。作曲とかがすっと行かないのはその辺でもあるだろう。ギターにすらあったもんな。

 先日ブルースセッションに行ってしまった。「戻るなあ」ということを強く意識していたタイミングだったし、ブルースをやるうえでは全く意味がないということをわかっていたのだが、なんか人と話したかったのだと思う。結局のとこ、演奏していても弾きたいものが出てこないし、当然いい演奏にはならないし、ということをあらためて実感しただけではあった。「やっぱりどうあがいてもこっちじゃない」ということがわかるという意味があったとトリッキーに言えなくもないが、わかっちゃいたことで、結局自分の覚悟のなさというか、「いらないと判断するための器」を「いらない液」で満たすための作業をまたしてしまったなと思う(変なたとえだが)。外堀というか。その器自体バッと投げ捨てることができる人も、外堀を埋めるまでもなく一足飛びに越えてしまえる人も世界にはいるのだ。

 「いやあ、よかったですね」みたいなことを言うのもリップサービスではあるが、「あんなんダメですよ」というのもまたリップサービスだ。「あなたはわかってくれますよね、仲間ですから」と示しているにすぎない。でもそれがリップサービスの体をなしていると思っているのさえ俺だけかもしれない。認知のゆがみというか。こればっかりはしょうもないなあと毎回思うんだからやめたいところだ。

 酔って、「○○とか、あれダメですよね」と口走ったとき二つ隣にその人がいたのにばっと気づいた(というか話してた人に指摘された)。あ~と思う。その○○の演奏については前から苦々しく思っていたし、人としてもあまり好きな方ではないのでそういうことを言ってしまったわけだが、言うたら言うたで「ヤベッ」と思うのはなんなんだろう。まあふつうそうだろうけど、そうなるなら言わなきゃいいのだ。まあそれで「なんだあ!?」と絡んでくるような相手だったら、あんたのこれがおかしい、だからよくないというのだろうが…それはそれで、また後悔するのだが…今回は聞こえてないふりか、本当に聞こえてなかったか、見てないのでわからない。

 いわゆる医学的な見地に立たずに、すごい曖昧なことを言うなら、酒飲んだ俺って躁なんだろうなと思う。そこで急にバーンと上がるので、翌日、下手するとその一週間くらいは基本的に下がる。血糖値スパイクみたいなもんだ。自分の躁鬱というのをまあ波として、その波の振れ幅が穏やかな方が生きやすいとしたらやはり自分はあまり酒を飲むべきではない。やらかしたから酒をやめるとかそういうことじゃなくて、自分のバイオリズムが乱れるから飲まない。そう考えたほうがいいかもしれん。

 前に書いたことだが、「面白い人」になることに俺は執着していて、それがために悪口とかも言うのかも知らん。一番手軽に笑いをとれたりするからだ。しかし趣味が悪いし、自分を出しているようで、ある共同体の中でキャラをやってるにすぎないとこがある。たとえば、「福ちゃん来年30じゃん! 30なったらどうすんの、節目というか」とおじさんにいわれ、「そらもう…セックス祭りですよね」と返したのだった。まあその場ではウケたんだけど、「いや~それは、お金とかいろいろ大変だよ」みたいなコメントを誘発してしまって、ああこんな会話がしたかったわけじゃねえなと思った。まあ、自分の中では「セックス祭り」という無い言葉を急に言うことが面白いわけだけど、それがおじさんの間でどういう風にウケるかということも承知はしていた。

 前に「おじさん相手には結構つっけんどんなこと言ったりするのが意外とコツ」みたいなことを思っていて、ある種コミュニケーションをゲームにしてしまうことで何かをハックした気になっていたのだが、けっきょく露悪的になりたかっただけかもしれない。どちらかというと俺はコミュニケーションをきちんと成立させることにこだわりがあって(「こだわり」っていいこととは限らない)、ゲーム化みたいなことは不誠実だと思っている。ホモソーシャル的な、男子校的なあれを嫌ってもいる。でもそういう言語を状況に応じて使い分けてるわけだ。まあ、別にそんなに誠実であろうと常日頃努力してますという顔するつもりもないんだが、なんだかんだで翌日「あ~…」と思うわけで、なら自分の中に面倒を呼び込むようなことはできるだけ言うべきではない。

 まあでも普段「深い話ができた」と思うようなことも、その場でなんらかのルールを借りて行うゲームでもある。心と心の通い合いみたいなことはべつにそんなに起きることでもない。むずかしい話をして議論が深まっ太郎になるときはその協力型ゲームの上で何かを達成しているといえるし、とにかくウケを取り合うみたいな対戦型ゲームになることも男子校的な集団だとよくある。そのゲームのルールを知っているか、それに特化したカードを持っているか、そのルールを強く内面化しているか…それらの条件が合わないと、「あいつはスノッブだなあ」とか、「ホモソきついわー」という軋轢になってしまう。ごく一面的に極端なことを言えばそういうことにもなる。まあノリが合わないということ。

 まーそんなことを書くのはおれがそう、というだけかもしらん。あんまりしゃべるのが得意でなかった人間が大学で会話を「練習」するとそうなるっていう。最初にやってたことはただツッコミを適切なタイミングで入れるっていうことで、それこそ音ゲーみたいに考えていたわけだ。

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