2024.7.11,16,17(出社日記)

7.11

 ん~出社。まあ今日終われば明日は有給取ったので四連休だ。

 二か月ばかり練習したりしなかったりというか、なんか刺激なかったというか、そういう感じでなんとなあく詰まってる感じだったので、友人の弾き語りライブに行ってみた。出演は3組、客は俺一人だったのが、後半に一人女性の客が来た。

 トータルですごくいい刺激になったと思う。俺が表立ってバンドもやらずクネクネしている間にもきちんとステージに立ったりアルバムを録ったりしている人がいるんだよな、せめて俺はもっと練習しなきゃ、と実感したのがひとつ。基本的に俺は自分のテイストと違うライブには出向かないので、そういうライブを観て知らない表現に触れることができたのがひとつ。

 友人のライブはもちろんよかった。しかし(これは悪口ではないし、ここで書いているからといって俺ができるわけではないとはっきりいっておくが)バンドの中でうたうときと、弾き語りの形態で歌うときとだとやはり出すべきレンジが違うかもしれないと思った。つまり、バンドの音量の中であれば効果的な「強い」表現が、弾き語りだと少し過剰になりかねない。音量、音域、音質(トーン)、そういう話。ギター一本が出せるその幅はバンドのそれよりもはるかに狭い。だからバンドの感覚でやるとギター一本のそれを簡単にはみ出してしまう。そこで調和が乱れるようだ。友川かずきぐらい破壊的にギターを弾きながらであればいいのかもしれないし、その人その人の表現ではあるが。

 感情を抑えるべきだということではなく、感情を表現するための技術がまた状況に応じてあるのだろうということ。それに比べれば、何個かコードを間違えたなんていうのはまったくささいなことだ。もっとも、バンドの中ではなんとなく流されるそういう細かいミスにもいちいち責任を持つことが逆説的に弾き語りの技術を上げるということになるのかもしれないけど。

 まあ~こんなことを思ったわけですが、もちろんこれは批評というよりは自分のためのメモであって。結局俺は自分がリーダーであるバンドというものがいまはないわけで、ちゃんとバンドなり個人なりの看板背負って自分の音楽をパッケージして世に出している人には偉そうなこと言えないんだなあというのが最初の感想だった。バンドでできないなら弾き語りできちんとクオリティを出すということも俺はしなくてはいけないのかもと思ったのだった。こういうことを書き散らしながら、自分は特に何の責任も負っていないというのはなんかフェアじゃない。そんなわけで、しばらく一人で演奏できる曲をきちんと仕上げていこうかと思う。バンドにしたってそれができなければならない。フロントに立つのであれば。

 あ~でもバンドやりてー気持ちはあるなあ。大学の時は(コピーとかアレンジしかやってなかったけど)ほぼ俺がフロントで、コンセプトとかいちいち全部考えてたわけで、あのバンドのことで頭がいっぱいになる感じが懐かしい。

 来年の一月で日記がちょうど3年目になるので、今年までの分を一度紙に印刷しようと思ってnoteからコピペしているんだけど、去年の五月までで16万字あって、それだけで144ページも行ってしまうので容易にできない。しかもなんか、読み返すと結構本当につまらなかったりする。最初のほうによく書けたと思ってた日記も別にそうでもなかったり。てことは俺の日記も少しずつ成長しているのだろうか?

 いずれにせよ、ちょっとあまりにつまらない場合があるし、そんなので450ページも印刷するのはいかにも馬鹿馬鹿しいのでちょっとずつ編集していこうかと思う。そもそも縦書きにすると文章の汚さとか、段落の一字下げとかが気になる。

7.16
 ここで書いているので矛盾になるのだけど、まあ、一つのアイデアとしていうのだが、一か月くらいいわゆるアウトプット、というとなんだかあんまり好きじゃないテイストの文章っぽくなるので、出力とする、を少し抑え気味にして、入力を意識して生活してみようかなとか考えている。ギターを適当に弾くのも、こうやって文を書くのも、あるいはツイートするのも出力なんだけど、基本的に俺は入力の割に出力が多いほうで、その質をSNSやだらだら弾くギターとかで空費しているようなそんな気がする。まあ、日記が続いているのはその性質のおかげではあるかもしれないけど。

7.17
 とか書いていたと思ったら7,8月を全部出社することが決まってしまった。ワーーー!!! 理由は、一言でいうと(在宅で)サボりすぎ。こうなると一日8時間を仕事もしつつつぶさなければならないんで、イヤでも日記とか書くしかない。思ったとおりにならねえっていうのか、なんというのか……。でもコロナ以降、引っ越して以降、ことに仕事に関してはずっとだらだらやってて、それが何かしら自分が変化してゆかない意識の原因になっていたもんで、まあこれはこれで受け入れるか……という気持ちになってもいる。そういえばこのあいだ神社で「なんかしら転機が訪れますように」というお願いをしたのだった。素朴に。おお神よ、これがあなたの思し召しですか?

 きのう遺書を書いた。といっても死ぬ予定があるわけじゃない。ただ死は突然やってくるものだ。別に悟りを開いたのではなく、「俺が急死したら俺のギターって絶対実家のクソ暑い部屋にグチャグチャに置かれて、何十年も埃かぶるよな」と思ったら(父が現在一人で暮らしている実家の様相を考えると、これはリアリティのある想像というのを超えてほとんど現実なのだ)、ああこれはなんかしら書いとかないとまずいぞということになったからだ。

 まあギターなんていうのはあくまでモノなので、渡ってほしい人のもとにわたってくれれば(あるいは楽器屋にうっぱらってもらえれば)それでよいのだが、養わなければならない家族(ペットなども含む)がいる人にとっての死は俺の何倍も重いだろう。そんなことを思う。

 書いていて思うが自分は書くことがなくなったのではなく、自意識に振り回されていたのだろう(ひと段落目の話)入力はまあ乏しいことは乏しいが書くことはいくらもある。日記を書くとか書かないとかそういう話じゃなくて、インスタやThreadsやXやYouTubeやデジマートやメルカリをダラダラ見続ける時間を減らしさえすればそれでかなり良くなる。

 遺品整理。とりあえず一番いいギターは師匠に継いで欲しいななどと考える。ほかのギターはいらなければ代田のギター屋に売ってしまう。レコード、CD、テープはDJやってる友達に全部あげちゃう。彼が一番大事にしてくれる、かは知らんが有意義に使ってはくれるだろう。家具や書籍は元彼女のものが半分以上あるので、そこは連絡してもらうが、残ったものは読書会メンバーにでも選んで持って行ってもらおうかしらん。

 ギターをだれに譲るか、ということを考えていて、俺の音楽的な同志はいま師匠しかいないのだということに気が付いた。音楽をやっている友達はいても、シカゴブルースをマジでやるという志を同じくしている人はいない。自分自身そこに向き合えているかというと、このところ自信がないところだが…。それも大きい。なあんかこのところ自信がないのは。

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