Threads抜書き2024.8.20

英語教室のポスターに悪鬼のような本田圭佑

今の家が一番リラックスして暮らしてる 実家時代よりも同棲時代よりも。

この間Leo Nocentelliのコピーして改めて思ったけどほんとストラムを「振り切る」かどうかみたいなのって全然ギターのグルーヴ自体と関係ないな。

関係ないというか、必要とは限らない。世の「カッティング」教則では何かと「振り切るスピード」を練習しろみたいなことを言うけど。結局あのファンクのストラムの本質的な役割がわかってないのに「教え」を作り出そうとするからそうなる。わかってない奴がいい加減な思いつきを教えるべきではない。全くもって虚業。

Cory WongはうまいけどCory Wongみたいに弾く必要はないし、Vulfpeckが「ファンク」とされるのにはずっと疑義を呈してる(音楽の質自体を非難するわけではない)Joe Dartもそう。結局ファンクにもブラックミュージックにも興味ないやつが「俺にもわかる!これがファンクなんだ!」って聴くバンド。

まあ何回も言ってるけどCory Wongのあの奏法のルーツはカントリーのアコースティックギターだって本人が言ってるわけで、昔の「ファンク」のギタリストであんなふうに弾いている人はいない。

あんなふうに弦を全部弾かなくたってダイナミクスやグルーヴは表現できる。むしろあの弾き方の目的は音を均一化することにあるのではないか。

俺とてCory Wongの真似してできね〜とか言ってた時期もあるので、彼はプレイヤーとしての力量がないという気は毛頭ないんだが、それにしてもVulfpeck絡みへの(特に日本のアマチュアミュージシャンの)もてはやし方は本当にいい加減というか歴史に対してリスペクトがないと思ってしまう。

ネオ・ソウルのように、ネオ・ファンクとか呼べばいい。John Mayerはネオ・ブルースとでも呼べばいい。「ファンク」とか「ブルース」という音楽そのものになんの興味もなく、自分の"演奏"に取り入れてやろうとしか思ってないような人が都合よく名前だけ借りていくのは率直に不快だ。

Cory Wongですら「カッティング」なんて言わない(聞いたこともなかった)らしいからね…。まあこれもずっと言ってるけど「cut」という単語であの奏法を表そうとするのは本質から外れているし誤解を生んでいる気がする 別に音切る必要も必ずしもないんだから。JBのギターでもあのコードで音を伸ばしたままストラムするやつはあるよ。

別に俺は観念の人間でも哲学の人間でもないのだから話についてけなかったからといって気にする必要はないのだよな。

たとえば仕事から帰って、なんだかんだしててあと2時間もしたら寝なきゃいけない、しかしその間に自分が「それなりにいい気分になった」というイベントを挟むには限界がある…みたいなときに大麻みたいなものがあったらいいなとか思うわけだけど、しかしそのしょうもない会社員勤め生活のサイクルを回すためみたいな使い方(たとえばストロングゼロみたいな)をするのはなんというか文化としての大麻に対して違うような気がする。

俺は少なからず強迫的に「1日を良くしないといけない」と思うクセがあって、それゆえに休日とかはむりやりどっか行ったり友達と飲んだりする(で、そういうのがなかった日は憂鬱になる)わけなんだけど、本当はただぼーっとしたりすることをもっと肯定するべきなんだと思う。逆に、そういう気の持ちようにアクセスしやすくしてくれるのが大麻とかなのかもしれんが。

「面白い人になる」とか、必要以上に気さくであろうとするとか、俺は向いてないなりに社会に求められる人格というものを内面化してるんだが、それと根本的な向いてなさとのきしみが俺を強迫的にしている。

大学卒業するときも、同棲解消、というか別れた時も最初は絶望しかなくて今後楽しいことなんかひとつも起きないんだと思ったものだが、別に毎年楽しいし楽になっていくな。

発達障害を差別用語として扱うのはやめてほしい。

俺が大学入る前のインターネットでは「フジゲンはフェンダーより圧倒的に作りがいい」と「フェンダーメキシコは人件費安いだけでUSAと変わらない」という噂がまことしやかに囁かれていた。

曲に不要なギターソロならない方がいいのは当たり前。ギターソロいる/いらないみたいな二軸で話してるのにそもそも意味がない。

まあ俺みたいに文句言ってるばっかりなのもよくないのかもしれないけど、バンドとかやってて、身内のイベントのたびに「音楽ってサイコー!!」みたいなことをずっと言ってる人ってなんなんだろ。本当にそんなに良い演奏が身の回りに絶えないのならそれは心底羨ましいが…。

(Facebookから)
三軒茶屋でメシ食っててついでにスタジオで練習するか〜と調べたら期間限定で66年のフェンダー・ショウマンが使えるってことで1時間弾いてきたんだけど…なんか、高い金払って、メンテナンスの手間かけてまで使う必要があるのかなというのが正直な感想だった。確かに良い音はするけど、自分の演奏まで良くしてくれるわけじゃないし。強弱もそらめちゃくちゃ出てくれるけど、そこでできるってことは普段から出来てるというだけのことだし…。まあ「そういう機材を使うことで表現が上手くなる」と言う向きもあるのだろうが、それは補助輪みたいなもんじゃないのかなあ。

どういう回路だからこういう音が出るぐらい理解してたら意味あるだろうけど、それは理解して実践できるから意味があるということであって、ただあの高いアンプと高いギター使ったからこういう音出ました、これは1962年のアンプだからこうなんです、では…。まあ、所有してみないとわかんないこともあるのはまちがいないけど。

ショウマン自体も思ったより音がでかいとかじゃないんだなというか、まあそら音圧は圧倒的に出るのだが、基本はデラックスリバーブとかでいいのでは?という 当時、会場に合わせた出力とスピーカーのバージョンをそれぞれ用意するという以上の意味合いは(まあないわきゃないが)今なにかと15インチだ、10インチ4発だとやたら拘るほどのものがあったのだろうか?

ビンテージ使うのダサいみたいな話ではなく、なんか、意味わからず使って、そのうち意味がついてくると思ってるうちはその時は来ないんじゃないのか?

拗らせた童貞が「もし自分が童貞を捨てたら今のユーモアは失われるのではないか」みたいなむだな心配をすることがあるが、就職するしないみたいなのも近い側面があって、つまり可能性を収斂することを恐れているだけ、という。童貞だろうがなんだろうが面白い奴は面白くあり続けるし、就職しようがすまいが音楽をやりつづける奴はやり続けるだけのことで、就職した瞬間自分の魂が会社に売られるというようなことはない(というかそれを求めるような会社に入ってはいけない)。

というか就職してからやめたって全然いいわけで(まあ俺はやめたことないし、実家の外の生活基盤を失いたくないからやめないが)、言ってみれば通過点でしかないわけで…。

まあ「社会」がこちらに言い渡してくる「かくあるべき」を完全に無視してやれる素質があるなら無視すればいいし、本当の意味で無視できるタイプではないのなら一度それがどんなものか見てやることも別に無駄にはならない。
坂口恭平とかは「かくあるべき」にハナっから興味がなくて、で自分のやり方を作ってしまった(それも「事務」であった、というのがおもしろいところだが)。

ブルースでいうと最近「結局あの手この手戦法でいろんな方向から攻めたところで山は山だからそれは超えなきゃいけない」ということを言われていて、ようやくそれが腑に落ちたタイミングであり…。ただブルースにおいては幸い黒人から直系で繋がっている教えがあるから自分はラッキーだが、山の登りかたどころか、山がどこにあるのか、実在するのかということすらわからないのがふつうなわけで、まあそれも仕方ないのかもしれない。

昨日の暴言「サイコビリーってすごいよね…カントリーでメタルの世界観って…白人の一番ダサいとこ全部盛りやん」
「おい!」

俺自身にしろ、周りの人見てても、弦に指をぺたっとつけて弾くスタイルなんだけど、従兄弟は振りかぶって弾いてて「ロックの人だなあ」と思った。

自分は振りかぶって弦に当てたときの音がノイズに感じるし、振りかぶると「指でリズムを取る」ような感覚になりそうで忌避してしまうのだが、ロックだとあれがアタックの迫力として好意的に受け取られるのだろうな。Fleaとかもそうだったような。

そういうのもあってFleaをライブで観たときは「なんか大味だなー」と思ってあまり感動しなかった。

多分振りかぶって弾くロック系の人はアタックの瞬間を音の基準として認識している 俺がベースがなんとなく上手くなったのは音の伸びた先を聴いて逆算して音を入れるみたいな感覚が身についたからでもある。

60年代後半のES-335がストップバーからトラピーズのテールピースになるの、仮にも高級ギターメーカーがその程度のコストカットを気にするともいまいち思えんからやっぱり音の方向性を変えたということなんだろうなと思う 70sでセンターブロックの体積を減らしたのも然り。よりフルアコっぽさを求めたというか。

60s後半にはたぶんレスポールとかのリイシューを出すくらいソリッドが売れてたはずだから、逆に335系はよりフルアコとソリッドの「中庸」のキャラを押し出すことにした、とか。

以前フジゲンのセミアコを少し借りたとき、えっ?と思うぐらいテンションが強く感じた。011張ってるのかと思うくらい。俺のES-340はトラピーズで、それはストップバー。その違いなのか、ネックやヘッドの仕込み角の問題なのか。

ただ個体差というよりは当時想定された弦のテンションと今のギターのそれは違うのだろうと。340はナット自体013くらいは平気で張れるような幅になっている。

60sの弦自体テンションは(012-052とかの太さであるということを考えれば)かなりゆるいのだが、やっぱ昔の人も超人じゃないわけで、当時のギターと当時の弦の組み合わせでは今の我々が思うよりもテンションはゆるかったのだろう。というか、60年代のES-355に60年代のギブソンフラットワウンドを張ったやつを触ったことがあるから知ってる。

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