2024.6.10

 俺のこれまでの人生における命題、あるいは宿痾……はひとえにエゴの問題、それにつきる。二十九年という時間をその克服に費やしてきたといっても過言ではないように思える。自意識、劣等感、他責傾向、高すぎる「低いプライド」、自信のなさ。克服と書いたが実態は、それを人に見えないようになだめすかして小さくしてやるか、自分に見えないように目を背けるかという努力にすぎなかったかもしれない。

 もちろんこんなことは俺だけの問題ではないかもしれないし、エゴというのは何かをする原動力にもなってはきた。たとえばギターで妙に色々な奏法ができるのは大学の頃に始めた自分が、もっと前からやっている周りのギタリストと違った形で「うまく」なるために練習したからだし、今ブルースをやることになっているのも、身もふたもない分析をしてしまえば権威主義的に自分の「専門分野」を追い求めた結果ともいえる。もちろんそれならばプログレからクラシックとか、あるいはジェフ・ベックからフュージョン・ジャズに行ってもよかったわけで、結局こうなったのは自分のテイストというものがそう働いたということではあるのだが。

 今書いているのは助走みたいなもので、本当はもっと書かなければならないことがある。と思う。はじめ、「私の」と書き出して、一人称の違いによる文体や内容の変化を期待したのだけど、やはり自意識が邪魔してできなかった。「私」としたら、いつもより少し高尚な文章にしなければいけないような気がしてしまうと思った。むしろそうしようとして書き始めたはずだったのだが。肌に合わないことはできない。

 何が言いたかったか。俺は、結局のところ、本当の意味で自分の課題には向き合ってこなかった。それはコンディションが調わなかったという理由もあるにはあるが、その前にそれがしたくなかった、億劫だった、怖かった、ということによる。改めて振り返るが俺の課題とはエゴの問題である。と繰り返してもわけがわからないのだけど、そもそもきっちり言語化できているわけではない。

 さっき、エゴが何かの原動力になったとも書いた。特に音楽について書いたけれど、でも今は、それが邪魔になっている。音楽そのものをやることに対して邪魔になってるし、自分の人生をやることにも邪魔になっている。自分が行ってきた努力って、エゴがさせたものであったとも思っていて、だからさっき書いたような「原動力」によってしたものに関していうと、たいして今役に立ってない。むしろノイズになっている。

 なかなか書きたいことを書くのはむずかしいな。本当にしようと思えばできるかもしれないが、それをどうしても避けてしまう。それ自体が、ここで書きたいことでもあって、つまり自分は自分の言いたいことを粉飾してしまう。自意識とかプライドによって。今回書きたいことはことによると、というか普通「スピってる」と揶揄されうることで、それもわかっていて、ゆえに遠回りをしてもいるのだが。

 今日、スマホを家に置いて下北沢に歩いた。今の家から歩いていったことってあっただろうか。忘れたが、乗り換えの煩雑さから持っていたイメージよりはかなりあっさりと着いてしまった。おおよそ三十分くらいで、ざっくりした方角だけを頼りに歩いたが案外たどり着けるものだ。前に住んでいた家から代沢の方に出入りしていた記憶があったからかもしれない。

 スマホこそ持っていないがやることは変わらないもので、レコード屋を二軒回ってCDとレコードを計十五枚くらい買って、ギター屋を二軒見て、トロワ・シャンブルという喫茶店でタバコを吸った。昨日から三十分ずつやっている瞑想の成果なのか、スマホがないとかえって落ち着くことができるのか、三十分くらいは滞在して「なにもしない」をすることができた。くまのプーさんが一日中できることを俺はせいぜい三十分くらいしかできないのだ。

 大分酔ってきたし、一旦書いてしまおうか。今の俺の関心ごとというのは、再度の繰り返しになるが、エゴの克服である。もっとも完全にそれを「無い」ものにはできない。しかしそれを切り分けて観察することはできるだろう。という言い方は、俺が「心」とか「魂」とか、「深層心理」とか--言い方はなんでもいいけれど、要は無意識下で、考え以前の段階でものを思っている部分と、普段ものを「考えて」いる、いわば言語的な思考をしている部分は別であるという捉え方を採用していることが、まあ前提となっている。わかりづらい書き方であると同時に、考えている人にとっては今更のことでしかないが、ここでいっているエゴとは後者のことである。

 自分の無意識、あるいは身体といってもいいかもしれない、のしたいこととは、快適なこととは、出したい音とはなんなのか。それは「考えて」も遠ざかるばかりだ。何度も言われていることではあるけど、考えたり「ああしてやろう」と意図して出した音はほぼ全てが間違いで、それは出した瞬間にわかる。なぜわかるか、それは自分の身体がそう言うからだ。

 俺はそれを分けて見つめられるようにならなくてはならないと思っている。いわゆる自我、エゴと、自分が"本当に"望んでいること。今の俺にこの引用符をつけずにいう度胸はない。

 トロワ・シャンブルでアイスコーヒーを頼んだ。タバコを吸いながら、あの女性の店員さんすてきだなとか思っていた。でも自分のようなデカいおじさんがジロジロ見たら相手を不安にするだろうと思って、うつむいてコーヒーを啜っていた。後ろでは多分大学生だろうが、中学生みたいに子供に感じる集団がワイワイやっていた。

 松陰神社前や三軒茶屋がそうなりつつあるし、下北沢もいい加減妙な古着屋がやたらに増えているからシャバい店だらけになって、こざっぱりとした男女ばかりがいるのだろうと覚悟していたが、案外よくわからない若者たちと混沌とした雰囲気をまだ残していた。

 さっき自分には二つの「自分」があるというようなことを書いた。それはかなり雑に危険な書き方をしてしまえば「エゴ」と「本当の自分」みたいなことになる。いったん「小さな自分」と「大きな自分」としてみようか。かえって胡散臭いかもしれないが、今の俺にはそういう書き方しかできない。

 俺がブルースをやる上で適性がある、才能があるとしたら、「大きな自分」がそうであるということでしかなく、「小さな自分」があれこれ考えた結果では、ない。小さな自分がやることっていうのは、例えばギターやレコードをやたら買ったり、ブルースマンの機材や手の動きを「研究」したりすること。結局それによって同じ音が出せるようにならないことはわかっていながらそれをやっている。だけどそれをやるのは、それに従っていたほうが楽だからだ。楽というか、そういう癖がついているからというか。

 小田急線で下北沢から豪徳寺に移動した。そこから家に帰るつもりだったが、いつも歩いているはずの道をなんとなく見失ってしまって、適当に歩いていたら豪徳寺駅前に戻ってきてしまった。しかたないので一度銭湯に入ることにした。身体を温めたら外気浴でものを考えるのを何度かやって、牛乳を飲んで電車に乗った。何かまだ帰りたくない気がして隣駅で降りた。蕎麦屋で少し早めの夕飯として、そこから歩いて帰った。

 俺は人をどこかで見下していて、同時に巨大な劣等感を持ってもいて、それらは表裏一体である。つまり劣等感があって自信がないからそれを見ないために人を見下そうとするのだ。みんな自分より「ちゃんと」生きているし、今休んだりしている人たちには自分より深刻な事情があり、それゆえに能力を発揮できないだけで、本当の無能は自分だけであるというような妄執に取り憑かれている。同時に、自分が世界で一番頭が良いかのような妄想に囚われることもある。どちらも正しくない。考えなくてもわかることだ。でも、俺はいつもこのくだらない妄想に振り回されていて、振り回されたと気づいたときに毎回馬鹿みたいに落ち込むのだ。

 どうしたらいいのか。結局向き合うしかない。俺を導いてくれる人はいても、話し相手になってくれる友達はいても、自分と向き合うことができるのは究極的には常に自分だけだ。それは運動と食事制限を続ければ痩せるのと同じように、あるいは煙草を吸わなければ禁煙に成功するのと同じように単純なことである。俺がそれをきちんと望んでいない限りはできない、というかしない。それでもおれはそれを見つめなければならないこともわかっている。とすれば何の手が残るか。いまは、「修行」のようなことしかないような気がしている。

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