2024.8.31(すーすー)

 夜。25時。早く寝て早く活動開始したいという思いがずっとあるのだが、23時台に床に就いたとしても結構このくらいの時間まで寝られないことがありがちだ。これが変えられる習慣なのかどうかはよくわからない。でもまあ朝に本当に弱い人と同居してた経験からするとまだできる方だろう。

 めずらしく彼女の家に昨晩から今日の夕方までいて、そのあいだにラピュタを観たり、酒を飲んだり、立ち食い蕎麦を食べに行ったり、喫茶店に行ったり、昼寝したり、でまた飲みに行ったりした。ダルい感じのバーにも入ってしまったがもうすでにそういう場に慣れてきている自分がいた。

 けっこう自分が調子悪くなるのは寝不足だったり生活リズムの乱れに起因することが多いと認識はあるのだけどどうにもこうにも飲みに行ったりすると遅くなりがちだ。23時に寝れたら、で、眠りの質が良くなったら、だいぶ日々いい感じで過ごせる気がしてる。でも太って睡眠の質は低下気味だし、そうなるとよけいに日々を過ごす体力が失われるしでうまくいかない。明け方の四時までDJをやってる友人とか結構信じられない。でも俺もしっくりくるバンドとだったらそのくらいまでやれるかな。かつてはよく徹夜みたいなセッションをやっていた。

 彼女のうちでラピュタを初めて観た。こんな話なんだ、っていうのはある程度知ってはいたけど(本編を観てないのにムスカ大佐の台詞は丸暗記してるオタクのガキだったから)、こんなにアニメ美しいんだ、というのは新鮮だった。パズーの部屋で目が覚めたシータが屋根の上で鳥に囲まれるパズーを見た瞬間に表情が和らぐシーンとか、ベタっちゃベタなんだろうがそれで済ますことができた時代ってやはり豊かだなと思う。いまだったら「なんだか悪い人じゃなさそう」とか神経症的なモノローグを入れてしまいそうだ。どうしていまは「意図」が伝わらないことをそこまで恐れるのだろうか。あるいは観客を信じられないのだろうか…。全部言葉で説明してしまうのなら、たしかに二倍速で見ようが関係ないだろう。まあそうかといって、俺だってこういうわかりやすい画面での説明で安心しているにすぎないのだが。しかし「全部言われる」ことの白けさせかたってあるよな。

 なんか最近考えているのは、退屈すると鬱になる、という『躁鬱大学』の教えとは逆を言うようだが「一日ダラダラしてても不安に思う必要はない」ということで、それで昼過ぎまで寝ていてもストレスを感じることは少しずつ減ってきた。なんでだろうか。とにかく身体がやりたがってないところを無理して動かすというのは自然でない、と考えてるというか、一日にスタンプを押すように「何かをした」という実績を残すことにあまり意味を感じられなくなったというか。何かをするのはいいが、強迫観念に締め上げられてやったのでは心から楽しめたともいえない。そういうアイデアが湧いてきたのだ。疲れてる時は休むしかない。

 ただまあ坂口恭平的にいう日課を作るのは結構重要で、それは強迫的に行っているのではなく自分の中で自然なシステムを作るということだから、これまでのやり方とはまた違うのだろう。坂口はあるインタビューで、継続していくことについて「三日目からはすーすーと進む、それに乗っていくだけ」みたいなことを言っていた。まさにすーすーと行く、すーすーと何かを作るのが理想だ。自分にストレスをかけなくては本当ではない、とどこかで思っていたかもしれないが、すーすーとやっていける仕組みを考えた方がいいのではないか。最近はそんなふうに思う。

 

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