2024.9.1(+-)
朝
朝です。昨日何となく4時まで夜更かししてしまったのにどういうわけか9時に目が覚めて、しかも割にテキパキ布団をたたんで家を出た。腹が減っていたからパン屋か、喫茶店でモーニングを食おうと思ったのだが、アテをつけていたパン屋がどこも開いてなかったり混んでたりで結局コンビニでおにぎりを二つ買って、お〜いお茶で流し込んでからいつもの喫茶店に落ち着いた。依然として眠い。涼しくなってきたからホットコーヒーの一番苦いブレンドを飲んでみている。
隣のおばさんがしきりと鼻をすする。結構こういうのが気になるたちで、会社でもなんか変な習慣のある人にはつい「すみませんが…」と声をかけてしまう。そういえば子供の痰のからんだ咳ってことに耳を引く。のどが小さいからフィルター効果が薄くて(つまり音がこもらず)痰の質感まではっきり聞こえてくるのだ。気色悪いことを言ってるようだが俺もできれば聞きたくない。
Lurrie BellのMercurial Sonを聴くことにする。しかし耳栓がわりにするには凄すぎるアルバムだ。あるブルースおじさんがよく「クリエイティブにブルースをやりたい」みたいなことを言うのだが、これは本当にクリエイティブなブルースアルバムだと思う。ただアレンジが変わってるというのではなく表現しようとしてることが新しいのだ。だからこれまでは聴き方がわからなくて、師匠に言われてもそんなに深く聴いてなかったのだが。いつのまにか「あれ、これやばくない?」と感じる土壌が自分の中に育っていたらしい。
夜
ああ日曜も終わってしまう。金曜から遊んでおくと土日が長いが、それでも二日しかないものは二日しかない。まあしかし下手な三連休より長い気のする土日であった。
中島敦の『名人伝』を再読した。俺は何の名人でも今のところないが、道を究めるみたいなことについてはどういうわけだか考える機会が多いので、わりと「あ~そういうもんなのかもな」みたいな感じで読んでいる自分がいておかしかった。もうなんというのか、自分がやろうとしていることは今のところ芸事に近いのかもしれない。ブルースもそうだからだ、といいたいがそれは俺と師匠の性格がそうだからそう見えているだけかもしれない。白土三平を読みながら幼少期を過ごしたということが今の今まで影響しているのか。
そんな風だからもはや自分のものの考え方というのは結構まわりと乖離しだしていて、今日も久しぶりに会う人と音楽の話をしていて、しまいにはこの人は何を言っているんだという感じになってしまった(わからんけど)。まあそれ以前にそろそろ帰りたかったのかもしれない。単純に。こういうときおれは自分が一方的にまくし立ててしまったから…と考える癖があるというか、なんだったら「そう考えるようにしている」が、それは認知の歪みというものだし、それはそれで独り善がりな話だから今回はやめておこう。
明日仕事いやだ~と身体が言っている。若干の動悸。おなかがぐるぐるしている。昼にコーヒーを二杯飲んだせいである可能性も強い。まあ実際、出社はしたくないなあと考えている。でも明日朝は結構忙しくなるから、出社してしまったほうがさっさと片付くぶん行ってしまったほうがいいっちゃいい。でも今日はまだ行きたくない。
最近暑さはひと段落したけれども湿気がとんでもなくて、というか連日の雨でいささか気が滅入る。でも去年ほどではない。それか、去年は「雨のせいだなあ」と片づけていた心身の不調の原因をほかに求めることにしたのか。今日も朝から雨だったけれどむしろ俺はやけに活動的だった。きのう4時まで夜更かしをした割には十時に起き上ってふとんを畳んだし、なんか、どうしようかなあと思って大学の一、二年は会ってなかった知り合いにお茶でもどうかと声をかけた。普段の俺だったらそこまではしないだろう。それまではギターを弾き狂っていた。
躁、鬱、という言葉を自分に適用するのはまだ若干の引け目がある。会社でははっきりと「鬱です」というようにしたが(そういう組織において正直にファジーなことを言っていても仕方がないから)、実際いまの自分の気分の波はいわゆる双極性障害を「患っている」人よりはかなり緩やかなものだろうし、希死念慮とかもないからだ。しかし波があるのは事実である。ない人なんているのかという話はあるにせよ。
岡潔のように「プラス」「マイナス」という言葉を設定してしまうのも手かもしれない、と考えたが、しかし俺が「今は鬱」「今は躁」みたいなことを軽く言うことはもっと激しいつらさを抱えている人の怒りを買うのだろうか。それ自体が自分の思い込みのような気がしないでもない。そもそもその「病名」というラベルを俺は重くとらえすぎではないのか…。まあ、いまいちこの辺りはむずかしい。
先日も書いた気がするが自分には「生産的でなければならない」というマインドセットがあり、それは仕事中よりもむしろ休日に働く。それは仕事において「生産的」であろうとしていないことの反動でもあろうが、とにかく「今日は何もできなかった」と落ち込むことが多かった。しかしこれ、落ち込んでたからって明日じゃあそれを取り戻すかのように活動的になれるかっていうとそれも違う話で、そもそも何を取り戻すのか、ということでさえある。
このところの雨を味方につけるべきなのかもしれない。無理して外に出なくてもよい、疲れているなら寝ていてもよい、ただゆっくり過ごすことも肯定してよい…。「躁鬱人」の生態とは異なるが俺はそもそも先ほども書いたように彼ほど強烈な「躁鬱」なわけでもないと考えているし。
どうなんだろうかね。なにかを先送りにしている、という意識を自分はずっと持っていて、それに追い立てられているときほど気分は下がり行動不能になりがちだ。これを、まあ、やらないから悪い、と考えてはきたのだが、しかし結果的にかえってそのストレスで余計にタスクができなくなるということがままあるのならば、そもそもその自責をやめるべきではないのか。じゃあどうやってタスクをすますのよ、というとまだよくわかんないんだけど。
似たようなことで、最近「まあ急いで瘦せなくてもいいんでない」とも思い始めている。まあ食べるものくらいは把握したほうがいいし、運動もそこそこやっとくべきだが、とにかく変なストレスは排したいような気もする。なぜならそれが行動につながるという確信がないからだ。でもこれが正しい選択なのか、ただ自分に怠惰を許したいからなのかはいまいち区別がつかない。
すんごい雨降ってきた。今年はそんなに梅雨が長くなかったと思うけどここでこうなるんだ。全く毎年言ってるけど本当にこの国は熱帯になってしまった。高校の時に行ったフィリピンと同じような気候だもの。
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