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覚書:言葉の外へ

”…「言葉がなければ伝えることができない」とか「言葉がなければ残すことができない」というのは、だいいち本当か。私は子どものときから今にいたるまでずうっとそうなのだが、一生懸命しゃべると、
「もっとわかるようにしゃべってくれ。」
と言われる。それはおかしい。こっちは全力をこめて、全身を使って、伝えたいことを言葉と声と動作で発したのだ。なぜそれに対して相手は「わかる/わからない」という、ふんぞり返って目の前の人間を判定するようなことを言うのか。
「もっとわかるように見せてくれ。」
と言わないように、全力をこめて伝えようとしている人間はそれ自体が現象なのだ。現象は理解するものではなく、それに立ち合って記憶にとどめるものだ。…”


自分のなかである場所を占めている本や音楽は、風景と結びついていることが多い。

この作品を読んだことを思いかえすと、石屋川駅と御影駅のあいだを走っている車内、御影駅が近づいてくる風景が思い出される。


その風景自体に大した意味はないのだけれど、この本をよんだときの衝撃は凄まじくて、今まで自分がやってきた読むという行為を考え直す、というか「どうだったのだろう」と思うきっかけになった。

去年の秋ぐらいに、僕自身の中に起こったことを外に出すことをやめますというnoteを投稿したけれど、それはこの本を読んだからだ。

どうしてか。
この本のなかで触れられている、作品に対して、能動的に振舞おうとすることの傲慢さというか、わかろうとする姿勢の空虚さみたいなものを多少なりとも自分のなかに感じたからだったような気がしている。
そうした読み方が、自分になかったか問われて自信をもって「そんなものは微塵もない」とは言えない自分をみつけた。


そこから、読むこと、書くことってなんだっけ?と考える期間があって、いまはまた、読んで自分のなかに起きたことをこうして書いている。

「読んだことない本について…」の覚書でも似たようなことに触れたけれど、この本を読んで以降、読んだ本について書くときには、その本のことを書くというよりか、自分を含めたその周辺にあるものを書くようになっている気がする。

「この本は、こうこうこうである!」みたいなことを言ってきたつもりはなかったけれど、そうはならないように、より一層意識して、言葉を選ぶようになった。
同時に書くということの責任と、一方で書くという行為の自由さ、こうであらねばならぬ、みたいな無意識なイメージを意識できるようになった。

他方、この本に収録されたいくつかある文章のなかには、今の自分であることを勇気づける内容もあった。

例えば、想像力の磨耗というスクリプト。
子どものころに誰しもが抱いていた「死」とか「無」、「喜び」や「悲しみ」、「時間」といった抽象的な概念への問いをいつしか失ってしまうことへの疑問の投げかけと、小説ができうることについて書かれていた。

ぼくと話したことがある人はなんとなくわかるかもしれないけれど、ぼくはそういうことを考えていることが多い。
答えにたどりつきたいと思っているわけではなく、自分なりにそうしたことを解釈したいと、願っている。

正直、こうした問いに縛られていない人の頭の中は、なにで占められているのか想像もつかない、とさえ思う。

読んでいて、「世界をどうにかしてわかろうとする姿勢」の背中を押されたような気がした。


ぼくにとって、想像すること、考えることを励ましてくれるような本。


ほんや徒歩5分店主

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