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何もしないとは何?

会社勤めの時と比べたら、今、自由な時間が横たわっているのに、心がまだついてきていない。

朝、布団の中で、今日は一日何も予定がなくて、まだ眠いのに「今日このまま寝ていて大丈夫なんだろうか。何かするべきことがあるんじゃないだろうか。起きた方がいいんだろうか」と悩んでしまって結局布団から出れないのに心は休まらなくて疲れが残ってしまう。
もうすぐ人と組んだ仕事の一つであるオンラインセミナーがあるけど、まだやれることはあるんじゃないだろうか。もっとメッセージを送って誘うとか、プレゼン資料をもっとよくするとか。
何かやるべきことがまだあるんじゃないかと不安になる。

会社勤めの時は、月曜日から金曜日まで1日14時間くらい働いていたから、土日は休んでいいよね、と思えていた。
今は自由に時間が使えるのに、「週5日、1日8時間くらいは何か仕事らしいことをしなければならない」と言う気持ちにずっと縛られていた。
カウントしているわけでもないから、「本当に今私は休んでいいんだろうか」つまり休む権利があるんだろうか。と考えてしまう。


こんな私は、自由業には向いていないんだろうか。やっぱり時間割がきっちりきまった会社勤めの方がいいんだろうか。でも、もう戻りたくない。

(そう思って過去に何度か会社勤めに戻ろうとしたことがあったけど戻れなかった。とここまで書いて今思うと、会社勤め時代もそう休めてなかったかも。土日も営業の準備とか、勉強とか、何かできることすべきことがあるんじゃないかと考えていたな)

何か「役に立つ」ことをしなければならない、考えなければならない。
これが私の頭のどこかにずっとあって、それが不安を生んでいるらしいことに気づく。
でも、「役に立つ」てなんなんだろう?いったい何の役にたつってこと?何が、役に立つということなのか。
お金を稼ぐこと?誰かの役に立つこと?漫画を読んだり昼寝をするのは役に立たないの?私の役には立っているんじゃないのか?なにか本を書いたり、プロジェクトを企画して誰かに凄いって言われたいのかな?
いやむしろやるべきことをやってないと、誰かから責められたくないのかもしれない。責められるのは嫌だ、苦手だ。

朝、布団の中で~のくだり。忙しくしている人からすると贅沢な悩みだろうし、別の人からすると「休みたいなら休めばいい。それだけだ」と、どうでもいい悩みと言われそう。自分でも知っている。

でもそんな「どうでもいい悩み」に一つ一つ向き合うことが必要な人が多いんじゃないか。衣食住が満たされなかった頃は、それが満たされるだけで幸せになれると思っていたけど、今は衣食住が満たされてそれ以上を求めると「何を贅沢言ってるんだ」と言われるけど、実は「幸せを受け取る心持ち」のようなものがまだない人が多いんじゃないか。
一昔前が、「衣食住を満たす」がテーマだったとしたら、今の時代のテーマはそういうどうでもいい悩みを一つずつ向き合って解決していくことなんじゃないだろうか。

夫か誰かが「じゃあ「何もしない」を合宿にしよう」と言い出して、さっそく実現した。
最初「そういうことじゃないんだよな~。「何もしないでいいよ」と誰かから言われなくても自分で決められるようになりたいんだよね」と思ったけど。
でも、後から、この「何もしない合宿」で何もしない時間に何をするのかなとか、人が集まる中で本当に何もしないでいられるのかなとか、何かをするとは何か?とかいろいろ気になり始めている。
この期間中にいろいろやりたいことが出てきて、「和太鼓の練習に行って期間限定の夜桜を見に行こう」と計画を立てだして、「何もしない合宿なのに計画を立て過ぎじゃない」って言って、「でも「何もしない」と言う枠に縛られてしたいことをしないのも違う気がする」と言葉を重ねた。

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