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翻訳塾を開くにあたって

(書き手)古屋美登里

 子どもの頃から翻訳作品に親しみ、物語の世界に支えられてきました。苦しいときもつらいときも、本を読んでいれば幸せでした。精神の自由とは何かということを書物から教わりました。大学では国語や国文を学んでいたので、まさか翻訳の世界で仕事をすることになろうとは思いもしませんでした。翻訳学校に通ったことも、翻訳家に指導してもらったこともないのです。ひたすら優れた翻訳作品を読み、原文をたどり、表現の方法を探り、自分なりに工夫しながら三十数年間仕事を続けてきました。それが正しいやり方だったかと自問しても、うまく答えが見つけられません。
 そんなわたしが果たして翻訳について人に教えることができるのでしょうか。だれよりもわたし自身が不安を覚えています。

 訳書を何冊出しても、経験をいくら積んでも、一冊の翻訳書を出すまでの道のりが楽になることはなく、茫洋たる言葉の海から最適な言い回しをすくい取るまで、いつも悩み苦しんでいます。ただ、言葉とつきあい、表現を考え、自分の無知を知り、人に伝える方法を探るのは、とてつもなく刺激的なことです。まだだれも日本語にしていない作品を紹介する面白さ、楽しさは、ほかでは味わえません。翻訳とは、わくわくする冒険への旅でもあるのです。
 そうした旅の魅力を伝えていくことなら、わたしにもできそうです。


 明治大学商学部で文学作品と表現について教えてきた経験から、表現を考えるには自分で文章を書くのがいちばん大事だと思うようになりました。テーマを決めて書くことで、文章の流れ方を知り、文意を伝えることを意識できるようになります。翻訳という仕事は、文章を書くことが好きな方に向いています。
 この講座で学べばすぐに翻訳家になれると約束することはできませんが、受講生が五年後に翻訳者として立ってくれることを目指したいと思います。なお、この講座は少人数でおこないます。後日、募集要項は改めてお知らせいたしますが、受講希望者には、「The New York Times」や「The New Yorker」などの文章がひととおり読めて、日本語の文学作品を少なくとも百冊は読んでいることを希望しています。英語のテキストを読み込みながら、文章を磨いていくことがこの教室の目標です。


 この時代に五年後の自分を想像することはなかなかできません。でも、しばらく言葉と本気で戯れてみようと思う方がいたら、いっしょに旅に出てみませんか。どんな道中になるかわかりませんが、初めて見る風景が広がっているかもしれません。