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「世界は広い」の本当の意味

こんにちは。小澤です。僕は夏休みを利用して、9/6から9/22までヨーロッパ旅行をしてきました。訪れたのはオランダ、ベルギー、ドイツ、チェコ。

プラハの街並み

あーー最高だった。。とてもとても楽しく忘れられない旅になりました。

今日僕が筆を取ったのは、旅をしていて感じたことをなぜか書きたくなったからです。ただの備忘録なので文章もぐちゃぐちゃですが、よければぜひ読んでいただきたいです。

違いを探すほど、日本と世界の「同じ」が見つかる。

「世界は広い」何度も聞いたこのフレーズは、成田空港にいる僕の頭の中を占めていました。当然でしょう。小さい頃から「世界は広い」と何度も聞いてきて、それを疑うほどの海外経験も知見も僕にはなかったから。余白を始めるきっかけとなった一冊『旅の効用』を読んだ時の感想も、「こんなに世界は広いのか」でした(その時のことはこの記事に書いてあります)。

さて、無事ヨーロッパに着いた僕は、無意識に日本との「違い」を探していました。うん、違うところはめちゃくちゃある。ベルギーでは駅のトイレに入るためにお金を払ったし、レストランでチップはもちろん支払うし、充電器のコンセントは日本のタイプは使えないし、大雨なのに3割くらいの人が傘を刺さないし、マックのバンズはなんだが主張が激しいし。そんなものはあげればキリがないほどです。

疾走感溢れるベルリンの非常口サイン。「違い」

でも、この2週間、違いを探していたはずなのに、僕の心に残っているのは「ああ、外国人も日本人と同じ人間なんだ。」っていう瞬間ばかりです。最初にそれを感じたのは、ミュンヘンでサッカーの試合を観戦したときです。僕は一緒に行った先輩と2人で、ミュンヘンを本拠地とするバイエルンミュンヘンというクラブのサポーター席へ。席は無いに等しく、あの柵とあの柵の間ならどこでも立ってOK!みたいなワイルドな場所でした。僕たちのいたエリアに座っている人は0。立ち見率100%。現地の熱狂的なファンが周りにたくさんいて、チャント(応援歌)を大声で歌っていました。試合は2-0でバイエルンの勝ち。この試合は欧州最強クラブを決めるチャンピオンズリーグの試合で、相手はバルセロナ。盛り上がらないわけがない。いいプレーをした選手に拍手を送り、相手チームにブーイングをして、得点をしたら全力で喜んで。(ああああ戻りたいあの瞬間。。)

ゴール近い!

それでですね、印象的な場面が二つあります。
一つは2点目が入って後ろの席にいたおじさんと抱き合って喜んで落ち着いた後のこと。僕はふと思いました。「得点が入って嬉しいのって、僕も現地の人も同じなんだ。」
もう一つは、前半にバイエルンの選手がボールを持った時に思わず「右にパスしろ!」って僕の手が指したんです。そしたら左斜め前のおじさんが、全く同じ瞬間に同じポーズをしていました。その時の、「あ、同じこと考えてるんだ」という感覚。

こんなイメージ

この二つの場面とその時に抱いた感覚は、今も胸に残っています。サッカーという共通言語があった影響は間違いなくあります。でも、僕が感じたのはもっと根源的な話です。嬉しい時に喜び、切羽詰まった時に思わず動きが出る。これをシェアできたこと、これがなぜが僕には刺さりました。うーん、刺さったっていう表現は合わない。胸の中に鉛のように残っている感覚。

多分ここまで読んでくれた人の中にはこう思っている人も少なく無いでしょう。「それ冷静に考えたら当たり前じゃない?少なくともわざわざ記事にすることか?っていうかこじつけじゃない?」

僕も他人だったらそう思う気がします。でも、これはもう感性の問題な気がします。僕にとっては大事なことでした。

とにかく、どうしたことか、僕はサッカー観戦を通して、世界の「同じ」部分の思い出を日本に持ち帰ることになりました(あと衝動買いしたシャツとタオルマフラーも💸)

これが2022年9月13日の夜のこと。これ以降、僕は「違い」だけではなくて、「同じ」にも目を向けるようになりました。いや、正確には、「違い」より「同じ」の方が印象に残るようになりました。(「同じ」とかいう日本語がおかしいのは許してください)

ベルギーのムール貝が美味しいレストランで隣の席に座ったイタリア人っぽい家族を見て、「美味しいものを食べると幸せになるんだ」とか、ゴッホ美術館にいる人たちを見て、「ゴッホの絵はみんな好きなんだ、見たいんだ」とか、ベルギーのグランプラスという有名な広場で写真を撮る人たちを見て、「綺麗なものはみんな記録に残したいんだ」とか。

書いてるとすごく感性が貧弱な気がしてきますが、まあいいです。こういったとりとめもない「同じ」が、なぜか僕の心に強く残りました。それはもう逃れられないことでした。

「違い」はいつしか「想定内」に変わった

ではなぜこの旅では「同じ」が僕の心に結果的に残ったのか。
それは、「違い」を見つけようという僕の姿勢が理由の一つだと思います。旅立つ前の僕は、日本と違うものを海外に期待していた。より分かりやすく書くと、成田にいた僕は、日本と異なる文化や習慣、価値観などの、所謂「想定外」を求めていた。実際に、13日にバイエルンの試合を観るまでは、あれも違う、これも違うの連続でした。そんな日々を重ねていると、7日のアムステルダム到着から1週間で僕は「違い」に慣れてしまった。すると、元々は「想定外」だった日本と海外の違いはいつの間にか僕にとっての「想定内」にすり替わってしまった。「想定外」を求める僕の眼に、「違い」はもう魅力的に映らなかった。その代わりに、当然と言えば当然である、人間という生物が基本的にユニバーサルに備えている感情や習性が、「想定外」として立ち現れてきた。「あれ、自分と海外、日本人と外国人って、意外と同じところあるかも?」という具合に。

面白いのは、日本と世界の「違い」も「同じ」も、僕が気づくずっと前からそこにあったということです。どう世界に対してスタンスを取るかによって、世界の立ち現れ方が変わってくる。少し発展させると、今自分が見ていると思っている・知っていると思っている「世界」は、自分自身のスタンス(これには人生経験や価値観、その日の気分などたくさんの要素が含まれます)による規定を少しは受けているとも言える。

本もそんなとこがある気がします。同じ本。同じ文章が書いてある。でも、読んだ時によって抱く感想が違うことはありませんか。

話を戻すと、僕はできるだけ多面的な世界を見たい。というより、世界をできるだけ多面的に見たい。その理由は楽しいから。
世界とはそこにずっと前から在るもので、人間は自身のスタンスというある種のプリズムを通して捉えた「世界」を見ているとする。だとしたら僕は、世界をできるだけ多面的に見るために、プリズムの角度をずらしたい。それはどうやったらできるのか。これは今はまだ考えが及んでいません。

プリズム

「世界は広い」の本当の意味

そして僕はバイエルンの夜の後、ここに書いたようなことをダラダラ考えているときに、重大なことに気がつきました。それは、「世界は広い」という言葉を、僕は無条件に「世界は違う、だから広い」という意味だと解釈していました。その解釈自体は間違っていないと思いますが、必要十分ではない気がします。「世界は広い」という言葉はもっと包括的な意味を持つのではないでしょうか。今回の旅行で僕は、「同じ」部分に気がつきました。同じ部分には、自分にとって何らかの意味があると直感的に思いました。それもまた、世界が広いことの証左だと思います。
例えば僕は今、寮に住んでいます。僕の部屋と隣の友人の部屋の間取りはほとんど同じです。さて、この同質性に意味はどれくらいあるのでしょうか。ちょっと例のセンスがいまいち僕は気に入りませんが、言いたいことの本質は逸れていない気がするのでこのまま。「そこにベットを置く手があったか!」みたいな自分の部屋との「違い」に一通り気づいた後に、「あれでもやっぱり間取り同じだぞ」と気づいても、その気づきが僕にとって意味があるとは思わない。
ある程度の「広さ」があってこそ、「違い」が担保され、それ故に同質性に気がつく余地があり、そしてそうやって気付かれた同質性には一定の意味がある。のではないか!(自信がない!)それも含めて、「世界は広い」なのかなあと思いました。

壮大なことを書きましたが、僕が見た世界はたった四カ国のしかも観光地がメイン。おまけに期間も2週間。ちっぽけなのは重々承知。ここに書いたことはあくまで現時点での気づき。これからの人生でもっと世界を見てみたいです。

最後に、旅行中は余白を他の3人が運営していてくれました。感謝感謝です。さあ、ここからまた余白頑張ります🔥

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