自己の相対化 ≠ 過去の自己の否定

自己の相対化と過去の自己の否定は違うということを最近学んだ。

今の自分を語る時に、過去と対比して話すことはよくやる手法。それは過去の自分の相対化である。ところで、その時に今の自分を際立たせるため、言い方を変えると自分という人間のストーリーにある種のセンセーショナルさを付与するために、おそらく無意識のうちに過去の自分を否定してしまう癖が僕にはある。過去の自分の否定→今の自分の成長の構図を作りたがるのだ。例えばこのインタビューはお気に入りの一つだが、今読み返すとそのきらいがある。

この記事に限らず、過去の自分のことを話す時に、果たしてその自分を必要以上に卑下していないだろうか。

自己の否定がもたらす不利益は二つある。

一つ、過去の自分を精緻に捉えられなくなる。
こんな文章を引用してみる。

論理を論理を脱構築しようとする際に攻略すべき最脆弱ポイントは、暗黙の前提となっている「二項対立」です。

山口周『ビジネスの未来』P159

関係ないけど久々に引っ張り出したな、この本。余白を始める最後の一押しはこの本だった。
話を戻すと、「過去の自分はダメだった。今の自分はこう変わった。」の二項対立は、過去にダメのラベルを貼ってしまう。一度貼ったラベルはなかなか剥がせない(そういえば小学生の時に実家の机に貼ったドラえもんのシールはまだ取れていない気がする)。すると過去の自分をより深く省みるというステップへ思考が進まない。今の自分については「更新中の自分」ということで比較的良いも悪いも見つめられるが、過去の自分をもっと丁寧にのぞいてみよう。意外といいところがあるかもしれない。何がどう悪かったか、もっとはっきり見えるかもしれない。

もう一つの不利益は、その過去の自分を応援してくれていた人や一緒に頑張ってくれていた人の気持ちを害することがあるということ。
今の自分にとっては過去の自分をボロカスに言ってもぶっちゃけノーダメージ。でも、それを聞いた過去の自分を応援してくれた人は何を思う?一緒に頑張っていた人はどう感じる?いままではその視点がなかった。

実は最近、これをある人にやってしまった。また、偶然同時期にこれをやられる側にも回った。だからこの文章を書いてみた。結局何がいいたいかわからなくなってしまったのでここでおわり。


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