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山菜採りと狩猟採集時代のDNA

子どものころ、近所の土手でツクシを採ったり、親戚のおばちゃんがワラビ採りにつれてってくれたりしたが、採るのは好きでも食べるのはキライだった。「山菜、いいですねえ~、も~、タラの芽の天ぷらサイコーです!! あ、日本酒おかわり~」なんて言うようになったのは30歳過ぎてからだ。食べるのは好きでも山菜採りの経験はなく、わたしと山菜の付き合いは居酒屋限定だった。

一度だけ、青果物の仕入れ担当をしていたころ「山菜を出荷したい」と言われたりんご農家の山で、山菜採りをさせてもらったことがある。山菜の圃場確認に行ったついでに山菜採りして帰れと言われた。案内されたのは山の中の野原だった。地面には、草に混じってふきのとうのトウが立ったやつが山ほど生えていた。

「これはこれでおいしいのよね」というかあちゃんに、これは家で食べるのはいいけど売るのはムリかなあ。ふきのとうも開いたら商品にならないんだよねとか言いつつ、あっちにコゴミの群落。ここによもぎ。あそこの斜面にはタラの芽があって、山を登るとこしあぶらなど、あちこちを案内され、ふきのとうやよもぎを摘み取っているうちに、なにか体のなかからものすごく熱いもの、よくわからない凶暴な浮かれ気分がわきあがって、思わず口走っていた。

「地面に食べものがいっぱい落ちてるうううぅうううう!!」

「何言ってんのこの人?」という顔をして、かあちゃんはわたしを見た。自分自身も何がそんなにうれしくて、ウキウキして空に舞い上がりそうな気分になっているのか、全然わからなかった。あとで、自分は何もしていないのに、種をまいたわけでもないのに食べものが地面にたくさん生えている、そのことがうれしかったのだと気づいた。

それまでのわたしは、食べものは誰か(自分)が育て、食べられる状態になったものを相応の対価(自分で育てた場合は手間と時間)を支払って手に入れるものだと思っていた。なのに、誰も栽培していないのに、食べものが地面や山に生えているのだ。そしてそれを自らの手で摘み取る。何もしていないのに!! ものすごい充足感、これは狩猟採集していたころの人類の気持ちではあるまいか、と思った。

人類が農耕を始めてまだ1万年ほど、わたしたちの身体・代謝経路はいまだに狩猟採集時代のままだとよく言われる(ケトジェニックダイエットの人がよく言う)。さらに現代は「栽培する人」と「食べる人」という役割が完全に分かれていて、自ら汗を流して食料を育てて収穫したりはしない。わたしの体内で狩猟採集のDNAは干からびつつある。しかし、ナニカのきっかけで一気にそれが蘇る。わたしの脳は山菜を摘みながら狩猟採集時代に戻っていたに違いない。

ネマガリタケやキノコのシーズンになると、朝から晩まで山に行っちゃって防除全然やんないと愚痴られていたりんご農家のおっちゃんがいたが、彼は単に狩猟採集時代のDNAに突き動かされていただけだったのかもしれない。わたしが庭に来るヒヨドリや野川に浮かんでいるマガモを見て「うまそう」と思うのも、狩猟採集時代のDNAのせいに違いないのだ。そうとしか考えられない。

ふだんは「アタシったら根っからの農耕民族だから、肉とかあんまり食べないのよね」とか言っているが、ナニカの拍子に狩猟採集時代のDNAが蘇ることがある。「山菜採り」は最も最短で狩猟採集時代に戻ることができるイベントに違いない。もう一度あの凶暴な浮かれ気分を味わってみたいと思うけど、わたしの経験は一度きりだ。残念だなあ。

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