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華麗なる「加齢力」について語ろう

50代後半からなにかこう、思いもよらない力がついてきた気がする。加齢によって自然に身についたその力を「加齢力」と名づけたい。昔「老人力」というのがあったが、当時は若くてその本は読まなかったし、言葉がジジクサイからキライだ。華麗な力なので加齢力、いいんじゃありませんか?
 
さて加齢力とはどんなものか。主に「できないことが力になる」的な事柄で、さまざまなことを「べつにどうでもいい」と思える力である。そんなんカンタンだもんねとか思うかもしれないが、人はさまざまことが気になるものだ。「べつにどうでもいい」と思える心境になるにはけっこう時間がかかる。わたしは58年くらいかかった。この「どうでもいい」の根源は「老眼」にあるようだ。
 
長いこと視力左2.0、右1.5を誇っていたわたしは、見えないものなどこの世にはないと思っていた。48歳のある日、銀座ライオンで大酒を飲んでいたら、ビール瓶の原産地が見えなくなっていた。もしかして近視になったのかも、と、瓶を近づけるとどんどん読めなくなる。ヘンだな。そして瓶を30センチほど離して見ると、見えなかった小さな字にピントが合った。48歳、老眼は銀座ライオンから始まった。
 
遠くのものがよく見えればますます視力が良くなるのではと思ったが、とくに視力に変わりはなく、近くのものがどんどん見えなくなっていく。ほどなくして、「見えない」経験がなかったせいか、わたしの脳は「見えないもの」を「ないもの」と認識することに気づいた。見えないものは存在しない。そう気づいてからは、人の顔色や微妙な表情を読むのもやめた。見なければ存在しないのと同じなのだから。
 
老眼がすすむと同時に、身体のあちこちにガタが来るようになった。ムリをすると必ずツケがどこかで回ってくる。ムリをせずテキトーに暮らしていたら、大酒が飲めなくなり、夜更かしが苦手になり、朝5時に目が覚めるようになった。せっかく5時に起きてるんだからと早朝ランニングを始め、おなかがすくのできちんと朝食を食べ、夜は10時に眠るようになった。明らかに年寄りの生活だが、大酒飲んで1時過ぎに寝て6時に起きて朝食抜きで仕事に行っていた40代のころ、絶対ムリと思っていた健康的な生活が、努力もしないでできるようになった不思議。これこそが加齢力ではあるまいか。
 
いろんなことを「べつにどうでもいい」と思うようになると、ほんとうに大切なことはほんの少ししかないことに気づく。他者の評価を気にしていた若い頃の自分に「そんなのどうってことないよ」と言ってやりたい。わたしはずっと「いつか何者かになりたい」と思っていて、そのように評価されることを期待していたが、その評価は永遠に続くわけではない。結局は自分以上の何者にもなれないのだ。

これからも、わたしはわたしであり続ける。ネコが3匹、夫が一人いて、とくに何者でもないが、これまでの人生のなかで最も充実している気がする。そしてこのような自己満足を文章にし、こういう場にあげる臆面のなさこそが「華麗なる加齢力」の証である。
 

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