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ある日の高校演劇審査員日記・2024年秋その①


はじめに

 あらためましてこんにちわ。脚本家の山本健介です。

 2年ぶりに、高校演劇の地区大会の審査員を務めさせていただくことになりました。
 第47回東京都高等学校文化祭演劇部門地区大会・第78回東京都高等学校演劇コンクール地区大会発表・多摩北地区Aブロックの、2024年9月14日・15日・16日分の、計12団体の審査です。
 この中から、次の中央大会に向けて2つの推薦高を決め、さらに優秀校を4校選出する(内・次点の1校を決める)という仕事です。

 で、僕は、見た高校演劇の感想とか選考がどんな感じなのかを、Twitterやnoteでひたすら書くという人で、過去にはこんな感じでまとめてました↓

 特に僕が審査員を担当したころは、コロナが大変だったこともあり、観客席が審査員しかいない、なんていう状況もあったんです。
 で、ひと夏をかけて頑張った高校生の上演が、確かにここで行われた、という記録の意味も込めて沢山書いてました。ここに、上演があったと。

 自分自身も劇の中身を書くことでとても勉強になるってんで、勝手に、好きで、自主的にやってます。
 こうやって感想を書く中で、どう選考を考えるとかという、自分自身の思考のプロセスも書いていく感じになりますので、「演劇の審査って結局ブラックボックスで、あんなもん審査員の好みガチャじゃないのかよう」と思われる方もいると思いますが、こんな感じで頭の中で思っているだよ、というところと。
 あとこう……いわば講評とか、なかなか他者の目に触れえない部分もあり。一つ間違えば何かヘンな事にもなりかねない。
 自分を律するか、複数の審査員がいるので、他の審査員の方との相互に緊張感持って仕事をするという事でもそうした事態を回避するのもあるけれど。
 講評で言った事、言おうと思った事をここに記すことで、他者の目に触れうることで、私自身もまた、しっかり批判を受けうる事にしていきたいなあと思った次第です。
 高校演劇の審査員を依頼された山本って奴ぁ、こういうプロセスで劇を見てんだなあと、参考にしていただければと思います。

9/14日 ①都立八王子拓真『大義の天秤』

 こちら生徒創作。
 昼間は凄腕刑事がひいきにするカフェのバリスタ、夜には強欲宝石コレクターから華麗にお宝を頂戴する凄腕の大怪盗に。しかし謎の美淑女のお宝を狙っている船上パーティーで、思いもよらぬ事件に遭遇し……というノリの劇。

 ザ・様式美だ! スーパーエンタメ怪盗モノ! 
 キザなセリフと、定番の展開のツボをきっちり抑えつつ、とにかくいいなーと思ったのは、なんかこう、後半、謎の美女が魔術を使って、触手怪物(触手怪物!?)を召喚し主人公をピンチに陥れるんですね。

 触手がでてきたーと思って。
 いいなあ。本当、やりたい事をやりたい放題やっているなあと思った。高校演劇で、8本くらい巨大触手。黒子の人たちが沢山出てきて、触手のついた棒を振り回し、主人公の怪盗と、急造タッグを組まされた銭形警部的なナイスガイが、触手を倒しまくるわけですよ。

 いいなあ。
 高校演劇で、まさにやりたい事をやってるなあと思って、うれしくなった。たとえそれが少々不格好であったとしても、彼らはやり切った。がっつり、キザなセリフの怪盗モノというジャンルを、全速力で駆け抜けたのを見れたのは、とてもうれしい。

 すごい好感を持つ一方、じゃあ劇の審査をする人としての目としては、「やりたい事をやっているからといって、それがすべて、良いわけではないなあ」とは思う。

 怪盗モノというジャンルに超自然的力なもの(クトゥルー)という展開はやっぱりミスマッチもあれだし(いや、それはむしろいいか?)、さらにそれを舞台で表現するとなると、よっぽど大掛かりでないと、どうしてもアラが見えてしまう。

 そう触手、けっこう長時間戦ってるから「黒子が触手を操作しているなあ」とまじまじ見てしまう時間が長くなり、本来見せたかった格好良さからはどうしても離れてしまう。
 ああいうのは、本当に一瞬、ザ・見せ場だ! みたいな、ほんの数秒見せるだけで、むしろ印象が強まるのよなあ。

 どうしても、やりたい事が「現実」と折り合いをつけざるを得ない「舞台」の特性とマッチングしない印象だった。
 おそらく参照にしているやりたい事が映像・マンガイメージだったことに起因する。
 だから、暗転・場転・大道具のチェンジで時間がとられる。
 また、キャラクターの見栄を切ったあとの退場が、どうしても間の抜けたものにも見えてしまう。

 同じく審査員の伊藤さんも指摘していたけれど、暗転や場転で完全にシーンを用意する事よりも、優先するべきはテンポや熱さであって。
 何もかもちゃんと用意や転換したり、時間経過を示さなきゃいけないとか。そういうのに囚われてしまうと、観客の集中って持たない。ロードの多いゲームって、萎えるじゃないですか。そんな感じ。

 また、こういう演劇は、キャラクターをいかに立てていくか、かっこいい&おもしろい、楽しいと思ってもらえるかが掛かっているものなのだけど、講評でもいいましたがキャラに「自身に自分の事をしゃべらせすぎる」ため、滑稽に見えたり、また、劇の大半がモノローグと自己紹介になってしまうように見えた。

 キャラクターの魅力をより伝えたいのならば、そのキャラクターとは別の存在に語らせる、リアクションをさせる、あるいは出来事を通して、なるべく「セリフにしないで」見せていくことが重要で。

 劇中、悪徳宝石コレクターが「密売、騙り、誘拐、殺し、どんな手だって厭わない!」と口にしていたけれど、それをセリフで処理するんじゃなく、実際のそのキャラクターが密売をし、人を騙し、誘拐や殺人を劇中やるシーンを作ってあげることで表現する方がいい。

 本作はひたすら「私はこういう人間です」という自己紹介が連続することになってしまったように見える。
 宝石コレクター役の俳優の人は、がんばって声を作っておどろおどろしく演じていたけれど、声を作って自分の事を言わせて伝えるのは、表面的な情報が限界になる。

 関係性や、実際に事件やそれに伴う動きを与えてあげる事で、人は、キャラは動き、何者なのかが言葉ではなく、五感で伝わる。

 そこに、人がいる、キャラクターがいる。
 それらを実際に何かを演じる事、演じようとすることは、自己紹介以上にその人が何者なのか、どういう存在なのかが透けて見えてくるのが、演劇の面白い点であり、生身の人間だからこそ得られる面白さだなあと思っている所です。

 クオリティの高い衣裳や、かっこいいセリフ回し、大仰な振り付けや、ガッツリとした設定はとても力が入ってこだわりを感じたけれど、こういう、ある種の様式美をやる場合、細部を油断してはいけない。

 講評でもいったけれど、カフェカウンターとして使う机や長机が、明らかに学校机や備え付けの備品だったりすると、せっかくのこだわり衣裳も同列の作り物感が出てしまう。
 もちろん予算やできる事の限界はあるけれど、せめて一枚、それっぽい色のついた布やテーブルクロスをかけるだけで、雰囲気は保てるはずだ。

 衣裳だけ見て、机は見ないで、という都合のいい事をお客さんに強いちゃいけない。様式美の道を行くと決めたら、出来うる範囲すべてに美とこだわりを貫いてほしい。

 それでも、本当、「これがやりたかったんだ」という熱意と楽しさは伝わってきた。
 そしてさらに一個アクセルを踏むとしたら、「やりたい事」を追っているうちは、まだそれは表現には至らない。なぜなら、「やりたい事」とは憧れを追うことになり、憧れを追い越すことはできず、2番になってしまうから。

 やりたい事を突き詰めていくうちに、「これをやらざるを得ない、やらないではいられない」というものが見つかるはず。
 その時、表現という深淵がこちらをのぞき込んで来て、こっちの正気度を削りながらも、混沌を吐き出せるようになる……と思う次第です。

②都立保谷『ありのまま』

 こちらも生徒創作。
 何気ない生徒会室の一コマ。しっかり者の生徒会長は、笑顔を絶やさず、いつもみんなのために問題を解決し、ミスをカバーし、皆が憧れ、頼りにされる存在。だがそんな彼女は「演じていた」事に疲れはじめ……という内容。

 いわいる「暗転を多用しがち」の高校演劇から一歩抜きんでて、徹底的にシーンの転換に暗転を排していき、物語のテンポを様々な工夫で崩さず、見事に最後までしつらえきったと思いました!

 特にシーンの転換が突出してうまく、停滞を作らず、さらに「劇の構造」を利用して、かなりメタな試み(冒頭の不穏な「学校名」や「上演タイトル」にノイズで聞き取れなくなっているアナウンス!!)や、客席を無理なく演技空間に用いるなど、そうとう……技を磨いて放ったなあというのが伝わってきたなあ。

 さらに、あんまり僕から講評で言及しなかったけど、演技体に無理がなく、(タイトルの『ありのまま』を意識したのかな)、生徒会室にいる学校の生徒の会話が、無駄に力が入っておらず、テンポよく(だからって間が早すぎる事もなく)話が進む。

 登場人物に、やや突出したアニメ声感のある人(日和ちゃん)がいたけれど、これが実にいいスパイスで、突飛なこともするし目立つけれど「こういう人もいる」というちゃんと現実感のある絶妙なバランスで演じられていた。
 演じた本人がかなり上手いというのもあるけれど、それだけじゃなく、それは場に居た全員の「受け」の演技が上手い。
 だから、浮かない。
 日和ちゃんをただの「コメディリリーフとして場を和ませる要員」にさせない。ちゃんとそこに「人」として存在出来ている、そんな説得力がありましたよ。

 これは座組全員でキャラクターを立て合っていたからそれが出来たんだろうなあ。ちゃんと「キャラ」じゃなくて「人」を出現させようとする、みたいな、座組の信念を僕は感じ取ったわけでした。

 しかしそう考えると、もう一歩、もう一歩の踏み込みがほしい。

 講評でももう一人の審査員の伊藤さんが言及していたけれど、一回一回、シーンが変わるごとに椅子とホワイトボードを入れたり出したりが、どうしても煩雑に見える。暗転をしないように、また、転換してる時にも演技が進むなどかなりの工夫は見られるが、そもそも果たして場所をそんな頻繁に転換させる必要があるのか、机椅子があった状態で演技させてもいいのではないか。

 またその机の配置だって、ハの字に、開いて見せていたけれど、現実の生徒会の会議室ってそんな不自然な開き方はしない。
 かなりナチュラルに演技を固めている分、そうした「演劇のお約束」かのように錯覚している部分は、もっともっと検証して行ってもいいと思った。

 なにより、これも講評で言ったけれど、劇の終盤、主人公が登場人物の言葉を受けて、「舞台」から降り、いずこかに去っていくシーン。

 自分を好いている男が、何か沢山、強い言葉で主人公に投げかけるけれど、あれで主人公がなんらかの心境を変化させて、そのラストを迎える、という展開でいいのかどうか。

 誠実に、主人公のためを思って、熱く、力強くセリフは吐かれる。
 だけど僕には彼のセリフはどうも正論めいていて、なんか男が女性を論破しようとしている感じにも見えた。

 強い情熱をもった正論を他者にかけて、果たして人は変われるかどうか。あんな言葉で主人公は揺らいでいいのだろうか。

 講評では、ちょっと恥ずかしいけれど、自分がいじめを受けていた時、「本気の、本音で、とても強く『やめてくれ』といったけれど、皆は笑うだけで誰の心も動いてなかったなあ」という思い出を話した。
 どんなに心から本音と本心で強く、誰かに語りかけても、誰一人変わらなかったなあと。
 そんなことより、人を笑わせたり、おもしろい事をするようになって、かえって人は態度を変えてくれたという実体験が僕にあって。

 どんなに情熱をかけて本音や正論を言っても、人は変わらない。だけど笑いは、人を動かしたり、変えたりするんだなあと。
 なんとなくこの原体験が、僕の表現のきっかけになっているのだけれども。

 どの高校の上演にも言えることだけど「まじめなシーンは、まじめにやらなくてはならない」というのは、おそらく違う。
 テーマっぽい事を口にするとき、道徳的な正論を言い放つとき、それがまじめであればあるほど、観客は、他者は聞いてくれない。
 耳には入るけれど、心が動かない、と私は思っている。

 劇の話に戻ると、主人公の女の子が、よい子として演じてきた舞台を降ろすときに、まじめに言葉を投げかける以外の方法もあったんじゃないか。
 
 なんとなく、天気の話をするとか。
 なんとなく、今いいなあと思っていることを口にするとか。
 だまって一緒の景色をただ見ているだけとか。
 ただ、そこに人としているだけ、とか。

 演劇は、セリフを言うだけが武器じゃない。
 人間がただそこにいて、何でもできるし、何もしない事ができる。 

 これは実は映像や他のジャンルの表現には実はやりにくい事で。
 演劇はただそこに居て、ただ時間を経過させることが、表現になりうることもある。

 そういう方向性から、主人公の心を、劇の進行や盛り上げとは別に、もう少し深堀してもいいんじゃないかなあと思った次第。

 そして、この作品の書き手は、現実と彼岸の間に横たわる、表現という名の川に、じゃぶじゃぶ足を突っ込んで「こっち側」に来つつある人だなあ、と僕は勝手に思ったところでしたよ。

③創価『Meandering』

 こちらも生徒創作。
 未来、AIによる技術革新が庶民にもいきわたり、完全ペーパレスが進み、人間の俳優、脚本家すらいなくなった世界で、少年少女たちが「演劇」と「俳優AI(アンドロイド?)」に出会う……という感じの話。

 もう、冒頭から、声が前に届く俳優の第一声で、観客の心をつかんでいく。
 何かが始まる。面白い事が始まる。そんな予感のするオープニング。
 設定がかなり魅力的で、皮肉的でもあり、ジュブナイルSFとしてのツボを押さえた素材は出そろった感じ。

 脚本の構成がかなり洗練されており、展開や演出は粗削りながらもちゃんと事件の連続、エンターテインメント物語としての「出会い」、「冒険」、「挫折」、「探求」、「勝利」と、出来すぎてるくらいちゃんと要素を踏んでいて……「さては、大人の手が入ったか?」と疑ったが、大会終りに演出をした人に話を聞いたら、完全にメインライターと演出の生徒が中心に、皆が作り上げたとのこと、……すっごいな、やるなあ。

 で、僕は講評の時に、「否定的に見ましたよ」とお伝えする。

 この劇を見た直後、審査員楽屋にて「うーんこれは……」と、内容に関して否定的なポイントをもう一人の審査員の伊藤さんに鼻息鳴らして語っていると「それは山本さんがとてものめり込めたという事ですね」と言われ、ハッとする。

 そう、一応はプロとして表現領域で活動する人に、劇の基礎的なところではなく「劇の内容そのもので、批判をさせる」という事を、させたのだなあと!

 一番強く否定的になった部分は、劇の序盤でクール系の登場人物が、(僕からすれば)何の脈略もなく言葉の遊びのつながりからみんなが知ってるアニメのモノマネをするシークエンスがあって、しかもこれがやや長い。一瞬ならまだ言葉遊びからの連想でまだ許容できるけど、キャラクターから大きく外れてしつこくこすっていたように見えた。これは良くない、と思ったり。
 会場はとてもウケる。大きく笑いが起きる。
 これは明快に、よくない。
 せっかく緻密にSFの設定が積みあがって、一つの異世界を作り上げているところに、序盤の一笑いのために、一瞬の笑いを入れてしまうのは、劇の没入を邪魔するなあと思った。

 このシークエンスのおかげで、以降、登場人物たちのセリフに信用が置けなくなる。
 せめてそのキャラタクーに「クールだけど、昔のアニメが好きで無意識にモノマネしてしまう」という設定が序盤に一振りあれば、まだいいと思ったんだけど。
 これは別に、このギャグをやった俳優の責任ではなくて、これを「面白いし、受けるだろうから」と許容した、座組全体の責任である。

 先の、物語の設定とはかなり関連の無いギャグが入った事で、観客に、今、見せているものは「お芝居」であって、舞台にいるこの人たちは、観客を喜ばせるために役を演じていて、観客に面白いと思わせるためにいると、見えてしまった。

 だからどんなに終盤、いいセリフを発していたとしても、キャラクターが実際に居るわけではなく、ただ観客を鼓舞するために、楽しませるために、俳優が演じて言っている言葉だな、と思えてしまう。

 演劇にとって、観客に面白いと思われることが、最優先されることではない。と、私は思っている。

 私が演劇にとって最優先の一つだと思っていることに「人がただ居ること」ができるかどうか、を置いていて。

 人がちゃんと、人としてそこにあれるか。

 演劇は数少ない「生身の人間がその場に居る事で成り立つ行為」が可能な催しであると。

 で、今、なかなか「人」が「ただ居る」ことって、できないじゃないですか。難しいじゃないですか。どこかで非人間的なあり方を、世の中は強いているじゃあないですか。

 演劇は、その社会の強いた非人間性から解放して、ちゃんと「人」であれる空間を作ることができると信じている。観客はそこで、ちゃんと「人」を見ることができる。僕はそこに、強く演劇の価値を置いている。

 審査の基準の中の真・善・美を一応言語化するとしたら、
「人としての真があったか(人を描くときのリアリティ、もしくは説得力、そして強度)」
「人としての善があったか(批判精神、劇を通じた思想性、考え方の面白さ)」
「人としての美があったか(人間の醜さ、くだらなさすらも美しく、面白く描けていたか)」

 が、観点になってくる。

 そう考えると、最優先が「観客を感動させたい」「観客に面白く見せたい」「ウケたい」という事が優先されたような上演は、私が演劇に求める基準から、すこしズレるかもなあ。

 劇中、ペーパレス社会が進んで「紙」が珍しい扱いになっている、という魅力的なSF設定があった。そして後半、脚本をAIではなく、人の手で書きたい、というキャラクターが、紙に物語を綴る。

 だが、その時の「紙」の扱いは、はたしてどうだったか。
 上演に出てきたのは、へならせた紙の束。
 それが、脚本を待ちわびる主人公に届ける手、その手に持たれ、それを受け取る手。
 その手は、その「紙」を触る手は、どうだったか。
 その「紙」に対する。そこに、どんな思いが、セリフにする以外の所で表現できていたかどうか。
 魅力的な設定を表現できる部分だったのに、甘い部分があったのではないか。

 さらにその小道具としての「紙」だって、もっと考えられてもいい。
 きれいに、大切に扱われた紙の脚本、あるいは必死に何回も推敲を重ねられて、くしゃくしゃになった紙の脚本……というように、そういうところでも世界が表現できる。その世界に生きる、説得力を持った「人」を表現できる。

 上演では、そのあたりが今一つ考慮されてなかったようにも思える。その道具の扱われ方。紙束、わりと粗雑に床に置かれてしまうとかもあったしなあ。

 それらを表現する間もなく、お芝居はテンポを崩さないよう、先に進んでしまう。
 テンポを優先すればそれは正解だと思う。停滞させず物語を先に進ませる。エンターテインメントとして、先のこのワンシーンなんて、あくまでも話の一つのピースに過ぎない。

 でも演劇であるなら、そこで停滞がおきたとしても、その世界における手触りを表現するべきではなかったか
 それが、観客の高揚やウケにとってノイズになるかもしれなかったとしても。

 また劇中、主人公たちが演劇の稽古をする、というシークエンスがあった。
 しかしそのシーンはBGMとともに、マイムで数秒で処理されて、話は先に進む。
 稽古をする、というシークエンスは確かに停滞だ。テンポが悪くなる。話の展開としても地味だし、結果どうなったかの方がエンターテイメントとしては見せどころも多い。
 だから、「稽古をしました」という事で先に進むのは、物語を進行させる演出としてはまったく正解なのだ。

 だけど、それでも、それはどうなのか。
「演劇を語る話」であるにもかかわらず、稽古のシーンをBGMとともにマイム処理で省略するというのは。

「面白さのために停滞しがちなシーンを飛ばす」という、正解の一つではある。
 けれど私たちはまさに、その泥臭くて、何かうまくいかない、非効率の停滞の中に、今、青春があるんじゃないか。
 それを省略するのはどうかなあ。

 と……そんな感じで……多くの人に感動をさせるために「演劇」という題材を使われてしまった、という感があったんだよなあ、と。

 これは、もしかしたら「審査員の好み」と言われてしまえばそれまでかもしれない感覚だ。
 でも、演劇をやる身である当事者でもある私として、どこか看過できなかったかなあ。

 と、強い言葉をいろいろ並べてしまったものの……。

 ずば抜けた一人一人の個の技量と、確かなシナリオ構成は、高校演劇として半歩先行く感じはあったでした。
 エンターテインメントとして相当強い。なにより、観客を強く沸かせていたのは紛れもない事実。

 やー……どうやってしかし、評価しようかなあ。正直、稽古の密度が足らない感じもしたけど、それでも結果として個々の上手さ、構成クオリティは相当高かったからなあ……でもそれは素材の良さであって、今回の上演で結実したかというと……うーむ。悩みます……。

(これは最終日前の審査決定前に書いた文章なので、この時点では創価高校の上演をどう評価しようか、具体的には、奨励賞に入れるかどうか、最後までずっと悩んでおりました。悩んだ詳細は頁を改めて)

④都立久留米『エイリアンズ』

 生徒創作。そう、この日の上演は全ての高校が生徒創作になってたんです。すごいよ!

 宇宙船で突如事故が発生。生き残った様々な事情を持つ3人と、一人の死体。その死体は3人から太郎と名付けられつつも、突如生き返り……!? 
という、限定空間サバイバルナンセンスコメディ。

 本当、冒頭からの、謎の提示と、キャラクター各々の事情が絡んで、セリフ回しの一つ一つにも面白く、カラッと乾いたセンスが光る良作でした。

 序盤から少しづつ謎や出来事が連鎖していき、いったいこれからどうなっていくのか……という事を、登場人物はお客さんと一緒にラストまで連れて行ってくれる。

 序盤で出てきたわずかなキーワードたちが後半のカギになっていたり、さらにどんでん返しの続く展開から、最後のアッと言わせるラストが待っている。なんてしゃれた構成なんだ。

 面白いなあ、と思いつつ、しかし惜しいところも多い。

 特に、この「場」がセリフだけで説明され、今一つその宇宙船内の状況が観客に上手く提示できていなかったんじゃないか、というのがあって。

 舞台上には丸イスが3脚。後方にホリゾント幕で照明で色が付けられていたりとあるのだけれど、今一つ「宇宙船内の限定された空間」という意識が、身体や演技に感じられなかった。

 や、多分セリフでは要所要所言ってはいる。扉の位置とか……でも、どうも見ていて、そこから人が出てきたとき、唐突に感じちゃったんだよなあ。

 空間を演技で落とし込んでいないため、実感としてこの人たちがどこに居るのか、どんな状況なのかが、演劇として伝わり切ってなかったように思えた。
 セリフで説明したとはいえ、思ったより観客に伝わらないのだ。
 だからそこで「カツゼツよく観客に正面向いて状況をセリフで説明せねば!」という話ではないのだ、それではますます離れていく。

 むしろセリフではなく、いかに行動で、演技で、アクションで、事件で、その場所がどんな場所なのか。どういう状況なのか。どういう気持ちなのか。言葉に頼らない、人の在り方で、この限定空間がどうなっているのかを伝えられるようになるといいなと思う。

 今回の場合、はたして素舞台に丸イスという選択肢は良かったのかどうかも疑問。
 椅子よりも、おそらく破損した宇宙船内の残骸を利用して座ったり背もたれたりする方が魅力的に見えなかったか。

 そういう舞台美術を作る金も技術もなければ、例えばじゃあ、コンテナに見立てた大量の段ボール箱を用意して、それに座るでもいいし、破損の混乱した状況を表現したければ、黒く塗った新聞紙を丸めて大量にバラまいてみるのもいい。
 絶対、もう少し工夫のしどころがあったはずだ。椅子にするとしても、破損の無いきれいな丸イスでは、多分ないんじゃないかなあ。

 また講評の時に照明の話(顔に影出来ちゃってたよ問題)にもなったけれど、あれも照明で区切られた「アクティングエリア」だからその範囲で動く、という発想ではなく、あくまで演技として「密室で窮屈な限定空間を表現するため、この狭さの中で演技をする」というルールを作り演技に制限を加えると、より魅力的になる。
 そしてその制限があると、照明のプランだって面白く作れるはずだ。

 自由は、制限を加えるとむしろ羽ばたく。
 この場がどういう場なのかを、様々な制限を付けたり、チーム全員でこの場所はどういう場所かを決め、共通の制限をかけると、何もない空間に、目には見えない舞台美術が出現する。

 稽古はつい、セリフをどう表現するか、どういう言い方にするか、などに大半が持ってかれるかもしれないけれど、セリフはあくまで、演技の中の一つに過ぎない。

 むしろ稽古でやるべきは、俳優全体でどういう約束事を定めるか、合わせるかにある。「ここ、壁って事にしよう」「古い壁?」「窓があることにしないか?」「その向こうには何が見えていることにします?」というように……。
 セリフではなく、そこに立つ俳優全員で場所をすり合わせ、作るという稽古もあるなあと、思うわけです。

 もう一点。
 後半、おそらくシリアスに受け取って欲しいであろうシーンで、なんか、面白くなっちゃった。意図せず笑いが起きてしまったところがあった。実際、ちょっと滑稽に見えてしまった。

 講評でもあった通り、「おそらくやりたいであろうイメージ」と「実際起きている演技」の乖離があって、「必死にシリアスにやろうとしている人」という滑稽さにつながってしまったのだと思う。
 それは、シンプルに上手くないから出現するのかといえば、それまでかもしれないが、それ以前に「脚本を読んだ第一案の演技のイメージに固執しすぎていないか?」という事でもあった。

 上手くないから、上手くない、というわけじゃあなくて。

 稽古の段階でその上手くいかなさに気づいたのであれば、その理想に頑張って近づける工夫よりも、むしろ第一案ではなく、第二、第三案を試すという方向もある。

 今回の、意図しないお客さんのリアクションは、残酷だけれど貴重な経験だと思うし、そこに落ち込んだり「自分は下手だ、上手くない、稽古が足りなかった」と落ち込むのは違う。

 うまく行ってないということは、稽古の段階から気づいていたはず。
 じゃあ、今の身体、今できる何か、別のアイデアはないか。
 今の演技プランに無理はないか、物語を進めるため、無理やりキャラクターを捻じ曲げてないか。
 そういう方向で検証するって言うのも大切なプロセスであると思ったりします。

 あー、もう一つ。
 キャラクターがどんどん、意外な過去や秘密の暴露をしていくシークエンスで展開していくのだけど、どこかセリフだけで説明されていくので、僕はどこかついて行けなさがあった印象がある。

 これは、セリフに頼りすぎているところもある。
 一つ解決策として、リアクター……そのセリフを聞いている、セリフのない俳優の、「受けの演技」を検証することで、印象は変わるはずだ。

 相手のセリフの、どこで驚いたか、どこで心が動いたか、このセリフを聞いている時、何をしている途中だったか。何かこちらも言おうとしている事、動こうとしていることはなかったか。

 それがあれば、セリフの中身が観客に届きにくかったとしても、俳優のリアクションを介して観客は感情や感覚が「なんとなく」でも伝わる。
 情報が正確に伝わる事を最優先にするより、むしろ「言葉にはならない何か」を伝える事が、私は重要だと思ったりしてます。

 いかに、セリフを良く言う、セリフを伝える、という稽古から逃れるか、という事が、どの高校も課題になるんじゃないかなあ。

 とまあ、いろいろ言いましたが、最後に出てきた美術の面白さ、わくわくもあって、とても楽しめた作品でしたよよよ。

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 そんな感じで、初日はこんなかんじでした。
 続けて大会はあと二日続いていきます。続きもお楽しみに。

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