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演劇以前の演劇の話【第6回】「生身の距離」

 人と会わないことが感染症対策になるようだ。

 なるべく人に会わず、人と接さず、人と同じ空間におらず、人と会話を交わさない。同じ空気を吸わない。同じ釜の飯を食べない。
 テクノロジーの発達もあって、人と会わないでも生活できるようにはなった。同じ空間におらず、同じ空気を吸わなくても、私たちは人とやり取りができる。主に通信機器を通じて人と話ができ、何かを注文する。配送にはどうしても人が介在するが、指定の置き場所を指示しておけば、生身で人とやり取りを知らずとも物を受け取れる。
 
 頑張れば、人と生身で接することはしなくても大丈夫なくらい、今ってテクノロジーはすごいよなあと思った。それを享受できるお金があれば。

 そんなお金のないわたしは、「ふざけんな、お前がここにいるだけで、感染症になるだろう、出歩くな、人と生身で接するな」という視線を感じながら、どうしても人に会いに行き、労務をしたり、物品を買ったりしていた。
申し訳ないなあという気持ちはあるが、生身の体であれこれ動くのが、結局お金が一番かからないからだ。

 思えば、演劇もそうやってはじめた気がする。なんだかんだ、生身の体で何かした方が、手っ取り早くて、めんどくなくて、お金がかからない。私がかつて、大学の路上で一人芝居をし、警備員にやんわりとたしなめられながらもそんなことをしていたのは、生身でやることに崇高な理念を持っていたからではなく、単にコストと速さの問題でやっていた。
 演劇以前に、生身であることは、早くで安上がりだったのだ。

 で、感染症が大変なことになった世の中になって、生身であることは高リスクになり、それでも生身の人間が何かやる、という事になったら、とんでもないコストと、準備と、賢さと、ミスしなさが必要になった。
 ばかなひと、おろかなひと、わたしが、生身の体で何かをすることに、とても参加できる空気ではない。丁寧で、ちゃんと感染症対策できる人が、細心の注意を払って生身で存在し、何かをすることを許される気がする。
 なるべく、だめな人は、生身の体で社会に存在しないように。もしくは、ものすごい距離をとって、なるべく、人と関わらないように。
 いっそ機械の体になってしまったほうが、社会にとって都合がいいのではないか。

 疑問なのは、「どこまでが生身の体だと認識されるのか」ということである。
 家の中に居れば、生身の体でも許されるのはなぜか。
 それは、家と言うものが、壁で仕切られ、外界との接触が遮断されているから「あ、こいつ、今生身の体だけど、外に出てないから許してやろう」ということになるのか。

 あ、じゃあ、めっちゃ距離あったら、生身の体でも許してくれるのか。生身が許される距離感ってなんだ。

 例えば、絶海の無人島に、全裸で一人いたとしたら。
「いや、それは別にいいよ。その島があなた個人の所有する島であれば、好きにすればいいよ」

 例えば、自家用車の中に、全裸で一人でいたとしたら。
「まあ、車の乗り降りする際に誰かと接したりすれ違ったりしなければ、いいよ。もしくは車からでなければ。しかしなぜに全裸」

 例えば、砂漠。半径30キロメートルにわたって何もない。その中心に、全裸で一人でいたとしたら。
「その土地が君の所有者なら問題ないかもしれないが、外で全裸なのは問題がある。全裸でなければとりあえずはいいかもだろうけど」
 
 では10キロなら。
「問題ない。全裸じゃなければ。」
 
 1キロは
「全裸がいよいよ問題がある気がしてきた。」

 200メートルは。
「……。ちょっとどうかなあ。どうなのかなあ。そのくらいの距離だと、誰かに生身の体の人と接してるのを見られてしまうかもなあ」

 2メートルは。
「やばいかも。政府は2メートル距離とってくださいって言ってる。それ以上近づいたらだめだ」

 では、この距離感。2メートル。生身。
 これは今、あなたと生身で接していることになるのか。
「2メートルなら、そうかもだ」
 
 では、この距離感で話をしたり、何かを伝えていいか。
「いいよ。いいけど、感染症対策して、マスクとか、もしくはビニール幕を張ってほしい。あとなるべくなら飛沫は飛ばさないでほしいから正面向いて話してほしくない。完璧に対策があるなら、まあいいよ。でも正直なるべくなら、こちらに何かを話しかけるのは控えてほしい」

 完璧な対策はできない。わたしはばかだから丁寧さもないし。対策するお金もないし。
「なら、後ろに離れて」
 
 200メートルくらいか。
「そうだな。そこでなら、まあ、いいか。どうぞ。なるべく生身の体で他人と接しているところを見られたくないから、手短に頼むよ。」

 愛してるんですが。好きなんですけれど。一緒にいてくれませんか。
「え? 今なんて言った? 200メートル離れてると、そんな小さな声は聞こえないよ。もっと訓練して、腹から声を出してくれないと。もしくはマイクつかってくれないと。こっちには何にも伝わらないよ、それじゃ」

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 申し訳ないことに、山本は、まだ感染症に警戒すべきだったころの今年3月、推しているアイドルの東京ドームライブの鑑賞に行ってきた。
 東京ドームには五万人収容される。それで、アイドルを、2階の内野席で、五万人の観客と一緒に、それを見た。

 アイドルが豆のように小さく、一人一人の顔は認識できなかった。

 隣の観客に目をやれば、お、オペラグラスを用意していた。左隣もオペラグラスだ! そうか、そういうものがあるのか……。
 しかたなく、私は舞台後方の大画面スクリーンでリアルタイムで写るものを見て、今歌っているであろうアイドルの顔を確認した。

 しかしすごかったなあと思ったのは、観客全員声を出さない。感染症対策のため、声を出しての声援は禁止されており、代わりに棒状のバルーンを叩くことで声援の代わりとするのだけど。すごい。アイドルファンはすごい。
五万人全員、言われた通り、飛沫を飛ばすことなく、無言で、マスクし、応援している。
 まるで、祈りのようだった。

 で、私はアイドルを見た。アイドルが歌い踊る姿を見た。小さい。いろいろ工夫はされていた。ゴンドラに乗ったり、高いせり上がり台に乗ったり、気球(本当に気球)に乗ったり、いろいろな工夫で観客席に近づいてくれる。
 でも、矯正視力0.7の山本の目では、アイドルの顔は認識できなかった。そのアイドル達が本当に俺の推してるアイドルなのかすら、わからない。後方のスクリーンを見て、間接的にアイドルが今、そこにいて、汗を流し、歌い踊る姿。私は、豆粒を見ながら、スクリーンを見て、そこにアイドル達が存在するのを確認していた。

 これは、アイドルを、見た、と言えるのだろうか。
 アイドルの生身の姿を見て、生身の体から発せられる声や、振り付けや、歌や、言葉や、ハッピーオーラを、受け取ったと言えるのだろうか。

 演劇は、「生身の体から演じられるエネルギーがーよくーてー」とか、その長所を説明されるけど、生身が生身でいられない場合、じゃあ、演劇の長所の一つは消えてしまうのかどうか。
 距離があって、その距離を遠くして、遠くで生きて。遠くで、今までと同じように生きて、演技をして、話して、伝えようとして。

 それじゃ伝わんないからと。じゃあ、マイクで、配信で、後ろのスクリーンに大写しに拡大されたリアルタイムな私を映して、「好きです。愛してます。一緒にいてください」って、言おうとしたけれど。
 なんかそれは、できないなあと思ってしまった。

 その「できないなあ」と思う気持ちは、演劇を諦めている事、表現や芸術を諦めていることになるのかなあ。人に好きですというとき、電話や配信で伝えるという事に抵抗がある気持ちを持っているようでは、だめなのかなあ。

「手紙にすれば? ラブレターとか、もらうとうれしいよ」
 
 なんかなー。
 
 早くないし、めんどくさいし、お金かかるから、なーんか、ヤなんだよなー。

 

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