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ただ居る記。第8回≪出張編≫

 さて、お盆休みには「ただ居る」場として居させてもらっているBUoYの喫茶スペースがお休みだったため、ただ居なかった。と、そんなさなか、「ただ居る」がフランチャイズとして、別な方にもやってもらっているというのは、ご存じだったでしょうか。

 こちら、「しょぼい喫茶店」で時々勤務されている向坂くじらさん(ツイッターnote)に、律儀にも「【ただ居る】というコンセプトとタイトルを、わたしのやっている喫茶店でお借りすることはできないでしょうか。」とDMをいただき、それでなんと「ただ居る」がフランチャイズとしてのれん分けすることになったという経緯。

 まさか「ただ居る」が、伝染するとは思いもよらなかった。だって、「ただ居る」んだもんなあ……。

 そんなわけで、僕も「ただ居る」を見たい! と思い、この間、いってきたのでした。くじらさんが「ただ居る」所へ。

(以下、ツイッターに連投したものを追記・再構成したものになります。)

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 「ただ居る」をやってもらった人のいる「しょぼい喫茶店」に遊びに行きまして。「ただ居る」を味わいに、僕もただ居に、行きまして。

 中野・新井薬師にある「しょぼい喫茶店」(そういう名前の店名なのです。)噂に聞いていたけれど、すごく居心地が良い。

 そもそも、居心地の良さとは何か、よくわからない。
 快適な椅子が居心地の良さを作るのだろうか。そういう訳ではあるまい。「ただ居る」がしやすい、という事なんだろうか。「ただ居る」、がしやすい、とは、何か……。

 「しょぼい喫茶店」についてはこちらが良くまとまっているのかな。
  ネイバーまとめ→中野に爆誕した「しょぼい喫茶店」がしょぼイイ!
 就職活動に疲れた、ある一人の人の「つぶやき」によって、この喫茶店は誕生した。場が出現し、ストーリーを持った人がそこに出現する。そこに集う人達は、その呟きに共感し、「喫茶」する以上の何かがあると思い、そこにやってくる。

 この場所で「ただ居る」が行われるのが、すごくいいなあと思った。
 当日「ただ居」たのは、DMをくれた、店員の向坂くじらさん。僕がやってくる時には、ギリギリオープンに間に合ったって感じ居て、くるくるとよく働いていた。ワンオペ店員さんなので、ただ居て、いるのだけれど、よく働いていたのだった。
 ご挨拶をし、店のシステムを説明していただいたりしたのち、くじらさんの居る日に出される特別メニューの「親子丼」を注文する。
 くじらさんも、実は僕が具体的に何をやっている人なのか、あまり知らなかった。ただ「ただ居る」というコンセプトを面白がってくれた。概念で、私たち二人は関わり、今こうして逢う事が出来たんだなあと思う。

 と、他のお客さんもやってきた。お客さんも、この場所が「しょぼい喫茶店」という事でやってくる。ぼんやりとした時間が流れる。
 くじらさん。途中、しょうゆが無い事に気がつき、店を出てしょうゆを買いに行く。残された我々二人。ぼんやりと話し出す。

 お客さんは、鉄道が好きな方だった、お盆休みもどこかへ鉄道旅行へ行っていた。熊本の震災から復旧が進んでいない事にも心を痛めていた。震災の直前、まさにそこを旅していたという。いまだ倒壊していて、復旧の進んでいない神社の鳥居の、まだ立っていたころの写真を見せてもらった。
 一人旅が好きな様子で、どの写真にも、その人自身は写っていなかった。

 なぜ、この店に、「ただ居る」事が、心地よかったのか。

 たぶん「客」ではなくて「わたし」として、外にでて、ここに居られたことが、良かったんじゃないかなあ。
 自宅以外でも、「わたし」でいられて、「わたし」はしかも、他のヒトにも「話しかけていいし、はなしかけなくてもいい」。そんな空間が、「しょぼい喫茶店」にはあった。
 お客さんとも、いつの間にかゆるゆる話しかける事が出来た。僕がもし、いわいるただの「客」だったら、他の「客」に話しかけるのは遠慮していただろう。けれど「しょぼい喫茶店」にやってくる人は、「客」なのだろうか。
 「しょぼい喫茶店」にやってくる「わたし」なのではないか。

 「しょぼい喫茶店」をやり始めた人は、どうしても「社員」や「社会人」になれなかった。「わたし」のまま、生活や、社会活動ができないかどうか。そんな「わたし」が、喫茶店を始めた。そこに、無数の、わたしのままで居たい人達が、やってくる。
 ここには「客役」として「わたし」はいるけれど、「金銭を払う事でサービスだけをただ受け取る」客は、たぶんいない。
 「わたし」が、自宅以外で、「わたし」で居られる。それは、稀有な空間なのではないか。今、街に出て、ストリートで「わたし」で居る事は、困難に思える。

 似たような場所として、僕も行った事がないからわからないけど、「コミケ」はそんな場所なんじゃないか。コミケには「客」がいないという。全員、参加者。全員、「漫画が好きなわたし」である、と聞いたことがある。それが今、夏と冬に、大きな賑わいを見せている。

 また、これもあんまり行ったことがないけれど、場末のスナックとか、クラブとかもそうなのか……? でも、どうもそれは、微妙に違う気がするんだよなあ ……近すぎる気がする。

 プロフェッショナルなサービスを、「わたし」ではなく「客」として受け取る喜びもあるだろう。だけど、そのサービスが時に、息苦しくも感じる事はないだろうか。
 逆に、身内からの、ぞんざいな扱いを受ける、その親密さ、近さに、息苦しさ、わずらわしさも感じる事はないだろうか。(場末のスナックみたいな場所がこれに相当すると思う)

「ただ居る」は、その2つではない……身内のぬるっとした関係でもなく、プロと客の、上下のピシっとした関係でもない。わたしとわたし達の、対等で、距離のある、関係性を希望する存在の仕方なんじゃないかな。
 それが「しょぼい喫茶店」で行われることに、すごくいいなあと思ったんですよ。

 そう言う関係性を、演劇でも作れないものかなあ。身内同士の見せあいでもなく、お金を介在させたプロと客の関係でもなく……「わたし」達が、そこにいる。群衆にも、客にも身内にもならず。
 
 「三万人とは一人である」
 という説がある。これは『考える水、その他の石』(宮沢章夫・白水社)にある評論で出てくる言葉なんだけれど、これはどういうことかというと、「観客が三万人になると、一人になってしまう」と。
 ある一定数の観客動員を果たすものは、観客が同質化し、一つになってしまう。それは、プロの技術としてエンターテインメントを見せているようで、結局、身内にみせる物と、変わらなくなってしまうのではないか、という指摘である。これはなんだか、分かる気がする。

 そうではない、人とのかかわり方はないものか。
 身内にも、三万人相手に見せるプロ以外の、客と主体との関係のとり方。

 「しょぼい喫茶店」で、「ただ居た」のは、すごくよかった。
 ただ、心配なのは、そうではない関係性で、今の世の中、継続して食っていけるのかどうか。いきていけるのかどうか。
 「プロ」になるか、「身内と癒着」するかの、この2つ以外で、食う方法って、今あるのか?

 「ただ居る」に対するコストについて、継続することについて、今はぼんやり考えていた。そこに、くじらさんが醤油を無事買えて、戻ってきた。せっせとくじらさんは親子丼を作る。注文してから50分してできた、親子丼、とても美味しかった。
 このゆるさが、すごくいいのだ。くじらさんは、ただ居て、しょうゆが無い事に気づき、しょうゆを買いにいき、戻ってきて、ご飯を炊き、丁寧に親子丼を作る。
 それが、いいのだ。

 僕が帰ろうとした頃、もう一人のお客さんがやってきた。

「ただ居る、って聞いて」

 身内でもなく、プロの技術を見せるでもなく、考え方、概念……言葉? 物語? といった、ふわっとしたもので、この場所までたどり着き、関係を持つ。
 そういうのが、いいんだよなあと思うと同時に、そのふわっとした、もろくて脆弱なものを、どうすれば継続させることができるのか。そもそも、継続を考えたら「ただ居る」的によくないのか。そのあたりを、「しょぼい喫茶店」を出た後、ずーっと考えているのだった。

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