見出し画像

6-4 飯試した 興味

「醤油ってご飯に合う?」僕はおばあちゃんに尋ねた日があったよ。

「合うな」そのような回答だったよ。

醤油はしょっぱい。白いご飯に黒に近い茶色が染み込むのは見た目の組み合わせとして正しさを感じる。もし醤油が白かったら、あるいはもし米が黒かったら見づらかった。醤油をご飯に垂らすのかご飯を醤油につけるのかという論点があるかな。

「味噌汁ってご飯に合う?」僕はその質問もおばあちゃんに向けた機会があったよ。

「合うな」そう述べていたよ。

味噌汁もやはりしょっぱい。しょっぱいのだが醤油ほどしょっぱくない。単体では物足りないと思わせてしまう味気のないご飯を上手にカバーする。ポジションが決まっているんだ。左がご飯、右が味噌汁。左に味噌汁、右にご飯が置かれてしまったら机の反対側に座り直さないといけないと誰かが言っていたがそういうわけではない。

驚くべき過程だが、醤油も味噌汁も元となるのは大豆なんだよね。僕たちは学級活動で大豆を学校で栽培して収穫した。国産の大豆は少なく、海の向こうの大陸からの輸入が多い事情を聞かされているよ。

「納豆ってご飯と合う?」僕がおばあちゃんに。

「合うな」おばあちゃんが僕に。

豆の原型を保持したまま発展させたおかずなんだ。匂いが強烈だから好みが分かれるとされる。ほぼ全員から求められるご飯とは全然違う。弟たちも僕のお父さんも、僕もまた納豆が好きなのだったよ。お母さんが食べている光景は見たことない。

だが、納豆とご飯の組み合わせに対して奇妙な感じを持つ時期があった。味が変で、納豆とご飯を同時に食べているとき、なぜか食べたくないと感じてしまう。

「なんで納豆ご飯まずいんだろう」この不可解な現象について、やはり僕はおばあちゃんに質問したんだよね。

「ご飯も一緒に交ぜてるからだろう」おばあちゃんは答えを提示したんだ。

衝撃を受けたよ。そういうことだったんだ。おばあちゃんは孫の手元を観察していてわかったんだね。僕は大きな勘違いをしていた。正しいのは、交ぜた納豆をご飯の上に置く方法。しかし僕は、交ぜた納豆をご飯の上に置いたあと、さらにぐちゃぐちゃに交ぜていたんだ。無駄な作業が食べ物をおぞましくしていた。おばあちゃんの指摘は正しく、納豆ご飯はおいしくなった。

「カップラーメン食え」夕食におばあちゃんが述べるよ。

「味噌にしようかな」僕は弟たちと重複しないように調整しながらいくつかの選択肢からお気に入りを選びとるんだ。

家でお湯を注ぐだけで作れるインスタント麺はご飯に従う脇役として使いやすいよね。味噌汁のアップグレードした姿と呼んでもいいだろう。僕の弟たちや集落の子どもたちは、麺を食べ終えたおつゆの中に直にご飯を投げ入れる傾向があるのだが、僕は賛同していないんだよね。ラーメンのスープの濃い味がご飯の食べ進めに貢献するのはもちろん同意だけど別々に食べ進めるのがよいと思う。

「今日はオムライスだぞ」ある日にはおばあちゃんが言うんだ。

時々僕の家の夕食としておばあちゃんはそれを採択するんだよ。大きな皿の上に、卵を素材とした黄色い膜で白いご飯を包んだ塊が置かれている。寝るときに布団にくるまる僕たちの姿のようなのだ。

僕はおばあちゃんに対し、彼女が提供する食べ物の文句を言わず、「これって消費期限は切れてないよね?」「切れてるけど大丈夫だ」のような安全面に関する疑義のやりとりはあるが、彼女が孫に与える飲食物に不満を告げることは基本的にない。ただ内心僕はおばあちゃんのオムライスには納得していないんだよね。

オムライスと呼称される料理って、卵で包囲されている中身って白いご飯ではないのが本来的なありさまのはずなのだよね。ケチャップライスとか、バターライスとか、そういうおしゃれなご飯だよ。

僕は本やチラシやテレビ番組などで現代社会に流通するオムライスを見てきたけど、白いご飯だった事例は目にしていない。おばあちゃんは知っているのだろうか。オムライスのご飯には味がついているべきであると。知らないんじゃないかな。白いご飯に卵を被せてあげれば完成形なのだと思い込んでいそう。

「オムライスって卵何個使うの」僕はそんな質問をしたよ。

「2個だ」おばあちゃんは答えたよ。

卵焼きを作る場合は1個で、目玉焼きを作る場合も1個だから、オムライスはそれらの倍の卵を要しているんだ。ご飯を被覆するために面積を増やさないといけない。卵が1個だけだと包んであげられる白飯の量が少ないんだ。

醤油にも味噌も付着していないわけで、おばあちゃんによるオムライスは味が乏しいと判断できる。焼いた卵の下に白いご飯があるだけだからね。味付けの役割を果たすのはケチャップだよ。焼かれた卵の地面にチューブから練り出された絵の具がうねうねと大蛇のように這う。赤、白、黄色の三色で愛らしいと思うよ。

僕の家でおばあちゃんが夜に鶏卵の黄身と白身を焼く場合、普通はオムライス。夜にただの卵焼きを孫に食べさせようとする場合は珍しい。おばあちゃんは卵焼きを作る際には醤油を入れるので、しょっぱい卵焼きとなる。

「卵焼き食え」そのように言うよ。

朝ご飯ではよく卵焼きが登場するんだよね。お日様が出てきても僕の食欲は出てこないのがしばしばで、茶碗の白いご飯を食べ進めるためにおかずとして機能してもらうんだ。

おばあちゃんが朝ごはんに用意してくれる頻度の多い料理は、味噌汁は毎日なので別とすると、1位がその卵焼きであり、2位はウインナーソーセージかな。買っておいたウインナーを包装から取り出しフライパンで加熱するのである。油にまみれていて激しく光っているんだよ。

「ふりかけかけてご飯を食え」そのように勧める日のおばあちゃんもいるよ。

市販のふりかけは確かに朝ご飯としての妥当性を感じやすいよね。真っ白なご飯を彩る楽しさもある。白には着色しやすい。種類は卵を使ったもの、魚を使ったもの、肉を使ったもの、葉っぱを強調するものなどいろいろあるよね。どれにも千切った海苔が入りこんでいる場合が多い。

「今日はお茶漬けでも食え」そのように勧める日のおばあちゃんもいる。

お茶漬けもまた、確かに朝ご飯らしいよね。紙袋を千切ってご飯の上からかけてあげて粒を散らすよ。ふりかけとの差はこの後、さらにその上から、ポットに溜まっている熱湯を注ぐことだよね。

「ご飯に塩でもかけて食え」そしてそのように指示するときのおばあちゃんも。

「塩ってご飯に合う?」そのように尋ねた僕もいた。

「塩が1番合うな」おばあちゃんはそのように回答するんだよ。

僕は容器を振ってご飯に塩をかけるんだよ。味がなかった白いご飯が、しょっぱい味がする白いご飯になるんだね。同じ色なので見分けがつきづらいよね。間近でじっくりと見ると、米粒の子孫たちのようにぴったり付着しているさらに小さな粒を目視できるよ。

「昨日のカレーもあるぞ」おばあちゃんがそう言う朝も。

朝に「昨日のカレーもあるぞ」と言うという状況は、前日の夕食がカレーだったからなんだよね。テーブルの上に置かれた鍋の中には元気を失った冷えたカレーが詰まっている。

僕の身の回りの子どもたちはカレーが大好きだよ。僕も嫌いではないし好きだが、好きの勢いについては彼らほどではないかもしれない。じゃがいも、にんじん、豚肉、玉ねぎ、濃い茶色でねっとりとつながったそれらはご飯にかけるものとしては最大の称賛を得ている。

数え上げれば際限がないよ。僕の前で止まり黙り輝く、茶碗に盛られたご飯。子どもたち、親たち、祖父母たち、人間と対峙する白飯には本当に様々なお供がいます。可能性は無限大だよね。たとえば「ご飯と味噌汁」のお供1種のパターンもあれば、「ご飯と味噌汁と納豆と卵焼きとカレー」のようにもっとたくさんの部下を引き連れるパターンもあるわけだよね。しかも、ご飯自らがおにぎりとして固まる、弁当箱に収まるなどの形態変化すら遂げるんだ。

【本質のテキスト6「飯試した テイスト5」に続きます】


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?