円心     担当:八木正典

大小無量の円において、その半径は異なれども、円心は、その円心たるにおいて皆一なり。人もまた自我を消尽し去る時、互に相通ずるの趣に至るを得む。(森信三)
 
 
この文章を読んでいて、王陽明の伝習録上巻にある「精金の比喩」を思い出しました。
 
「聖人の聖たる所以は、ただ是れ其の心、天理に純にして、人欲の雑る無きのみ。猶お精金の精たる所以は、ただ其の成色足りて、銅鉛の雑り無きを以てのごとし。人は天理に純なるに到りて、はじめて是れ聖なり。」
 
【訳】
聖人が聖である理由は、人格(心)が天理そのもので人欲のまじることがないこと、この一事です。ちょうど純金が純粋である理由は、その金の純度が百パーセントで銅や鉛がまじっていないのと同じです。(ですから)人間は天理そのものになってこそ、はじめて聖なのです。
 
陽明学の第一人者である吉田公平先生は、これを「量的差異は本質の等質性をいささかも否定するものではない。純粋であることが肝心なのであって力量の大小は個人差として積極的に認めている。王陽明は実行可能な普遍的実践論を提示したのではないか」と述べられています。
 
聖人学んで至るべし、自我を消え去るところまで行きついたときに表れるものの等質性が聖人なのであれば、また森信三先生が語られる円心の大小にかかわらず円である事の等質性が目指すものなのであれば、それを信じて一つ一つ私欲を取り去るべく努力を続けていきたいものだと感じております。

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