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母がいた-6

【注意】
本記事には、セクシュアリティや性に関する表現が多分に含まれます。
上記に関して抵抗のある方は本記事の閲覧をお控えください。

僕はゲイだ。あいあむげい。男性同性愛者。ムチムチ男性のえっちな画像を見ては「これはたいへんよいものだ」と心の中で指定文化財に認定しながらブックマークへ放り込み、海外のゲイカップルの素敵なデート動画を見ては「なんで俺の横には誰もいないの?」と床を転がりまわっている。情緒が安定しない。

素質というか潜在的には物心ついたころからゲイだったように思うが、明確に自覚したのは中学2年生のころ。男友達と数人で集まり、友達の親父さん秘蔵のえちえちDVD鑑賞会を開いた時のことだった。

画面の中でクローズアップされた可愛いく乱れる女の子に思春期男子達の視線はくぎ付けだ。「おっぱいがえろい」「俺は圧倒的に尻」などみんなちょっと前かがみになりながら各々の意見をぶつけ合っていた。その時だれかに「だいすけは?どこが好き?」と聞かれ、僕は一瞬言葉に詰まった。

「おっぱいがすきー」とふんわりした返事をした後に、なぜ言葉に詰まったのか考えてみる。え、みんな女優見とるよね?そうやんね?あれ、でも俺よくよく考えたら男優見ちょる。ちんこめっちゃ見ちょる。え?なんで???

鑑賞会が終わり、みんなとわかれた僕は家に帰り、パソコンの電源を入れる。家に誰もいないことを確認したうえで、「ホモ 画像」で検索した。(当時はゲイという言葉を知らなかったので)

海兵さんのポップなイラストが表示されたホームページ(あそこ名前なんだっけ?めっちゃお世話になったんよな)には、裸のラテン系男性がプールサイドでバキバキに勃起させている画像や、黒人の男性がばかでかいケツをこちらに向けている動画などが表示されていた。

「外人のちんこでっか….」と思いながら一通りスクロールしているうちに、僕は気づいた。リトルリトルマイサンがかつてないほどの臨戦態勢になっていたのだ。あの時の硬さを今後再現できる気がしない。まじで釘が打てそうだった。

ともかく、これまでみてきたノンケ物よりもずっとずっと興奮した僕は、自身がゲイであることを確信した。特に葛藤はなく、「そっかーホモかー」と思う程度だった。ちなみにその時の画像でサルのように抜いた。今でも思い出せる。隠しフォルダ(懐かしい)に保存した画像のタイトルは「koreyabai.jpg」だった。なんだそれ。

それからしばらくして、母が帰ってきた。夕食の買い物に行くというので、僕も荷物持ちとして同行した。

スーパーに向かう車中で、少し悩んだが、長男だし、弟もいないし、名字を後世に残せないかもしれない、と思い、母に打ち明けてみた。

車の助手席で下を向きながら「俺ホモかもしれん」と一言。

困惑させるだろうか。怒られるだろうか。運転中に言うべきではなかったかもしれない。家族会議になったらどうしよう。責められるのは嫌だな。などと一瞬のうちにネガティブな思考が頭の中を巡る。

すると母はバックミラーを確認しながらいつもと同じ声色で
「あそうなん?彼氏できたら連れてきて、ご飯食べさせたいし」と言った。

え、軽くない?もっとショックとかない?これって割と深刻な話なのでは?と思ったが、母が特に気に留めていない様子だったのでなんとも呆気なく僕のカミングアウトは終わり、その後なにごともなくスーパーでの買い物を済ませ、帰宅し、夕飯を食べ、部屋に戻った。そしてめちゃくちゃよく寝た。

それから1週間もしないうちに、姉と父にもカミングアウトをして、僕の性自認はあっという間にゲイになった。当時はそんなもんかと思っていたが、大人になってから知り合った人々の中には自身がゲイであることに対して大きな葛藤を抱えている人や、カミングアウトしたことでつらい出来事を経験した人がたくさんいることを知った。

僕は知らない間に救われていた。母の反応や周囲の環境が違えば、10年、20年とひきずる悩みになっていた可能性も十分にあったのだ。それを「あそうなん?」の一言でスッと受け入れてくれた母の懐の広さに気づいたのは、母が亡くなったあとだった。

思えば母はガサツなタイプではあったし、強い言葉を使う人でもあったが、誰かの価値観や根底にある変えられない物事を否定したことは一度もなかった。そういう人だった。だからたくさんの人に愛されていた。

いま僕は32歳で、現在進行形でゴリゴリのゲイだが、ゲイであることを後悔したり変えたいと思ったりすることはない。それは、少なからずショックや動揺があったはずなのに、僕が思い悩んでしまうことを避けるためにとっさに軽く流してくれた母のおかげだった。

あるいは本当になんとも思わなかったのかもしれないが、そんな母に僕は今も救われ続けている。

人の気持ちを大切にし
決して否定せず
それでも相手を気負わせない
そんな、母がいた。

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