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母がいた-16

今日、はじめて地元の公営体育館に行ってきた。想像していたよりもずっと立派なトレーニングマシンが並び、想像していたよりもずっと幅広い層の人がいた。大学生くらいの筋肉モリモリ男子達、運動不足を解消したいらしいもちもちの男女、それから足腰を鍛えにきた年配の方々。

僕はランニングマシンで2時間ほど歩いたのだが、それだけで汗だくのひいひいになってしまい、運動不足を痛感した。調子に乗って傾斜をつけすぎた気がする。ふくらはぎがぱんぱんだ。

体育館を出て駐車場を歩いていたら、さきほどみかけた年配の男性がシニアカーに乗って出てきた。シニアカーとはこういう⇩乗り物だ。

カゴ・肘置き完備でドライブにもってこいのおしゃれシニアカー

ブインと軽快にアクセルを回し、駐車場を駆けていくその姿を見て、僕は母を思い出した。母もこれに乗っていた。「ちゃんこ号マーク2」と名付けたシニアカーに。(ちなみに初代ちゃんこ号は軽自動車だった)

母が持病の悪化に伴って片足を切断してしばらく経ったころだった。僕が中学生のころか。当時の母は「ダイエット大成功やん?」とよくおどけていたが、生活、特に移動の面で不便が多かった。義足と杖で歩くことはできたものの、やはり長距離の歩行は負担が大きかったようであまり出歩かなくなった。仕事も退職し、家で本を読んでいる母は少しつまらなさそうで、見ていて胸が痛んだ。

そんな頃、母の障がい者手帳の認可がおり、介護保険も適用になった。その結果利用できるサービスの一環として我が家にやってきたのがシニアカーだった。母はこのシニアカーをいたく気に入り、「ちゃんこ号マーク2」と名付けて乗り回した。買い物にも行ったし、ドライブにも行った。

当時の我が家の近くには湖の周りを遊歩道が囲む大きな公園があり、その公園に僕と母のふたりで出かけてはゆるゆるとした散歩を楽しんだ覚えがある。それからしばらくして、一時的に離れていた職場にも復帰した母は活力のある日々を取り戻した。

当時の母の仕事は親戚の経営する美容室のマネージャーというポジションで、受付に接客、経理や経営も兼ねた業務をこなしていた。その美容室はキャバクラなどの水商売を生業とするお姉さんたち専用の美容室で、福岡の歓楽街である中洲という街の真ん中に店を構えていた。僕はよく母の手伝いや仕事終わりの飲み会に呼ばれて顔を出していて、スタッフやお客さんにお菓子をもらったり話し相手になってもらったりしていた記憶がある。

当時中学生の僕は、夜の仕事をしている大人のお姉さんたちの雰囲気と胸元にドギマギしまくっていたが、それとは別に母がいかに愛されているかも目にしていた。派手に盛り上がった髪型のキラキラドレスのお姉さんが「ちゃんこに会いに来た」と言っていたり、同伴で食事に行く前の美容室についてきた芸能人に「あなたがちゃんこさんですか」と握手を求められていたり。なんだか鼻が高かった。母は「そうです私がちゃんこです」とケラケラ笑いながら話していたっけ。

そんな母の愛され力はお店だけにとどまらず、中洲の街でも発揮されていたらしい。母が出勤のためにちゃんこ号マーク2で中洲の街を爆走している時のことだ。母が「ぱぷ」とちょっと情けない音のクラクションを鳴らせば、怖そうなおじさんが乗っている黒塗りの車も手を振りながらスイと道を譲ってくれたし、高い段差を越えられない時にはどう見てもカタギではないカラフルな腕をしたお兄さんたちが「ちゃんこさんじゃないすか!」とシニアカーを担いで段差を越えさせてくれたりしていた。

当時は「おかん顔広いな、そしてヤクザの人たちはこわいな」くらいにしか思っていなかったが、今思うと何がどうなったらそんな極妻みたいな扱いをされるのか分からない。今度いろんな人に聞いてみよう。

とにかく、まるっこい母が歓楽街には似つかわしくないシニアカーで中洲の道をぱぷぱぷ鳴らしながら走っている様子が、いろんな人に愛されていたのは確かだった。

母がもう片方の足とお別れしたその日、ちゃんこ号マーク2もその役目を終えて、介護用品会社に返却された。担当者さんに返却時のチェックをしてもらっていると、「こんなに長距離を乗られていた方は稀ですよ」と驚かれた。「中洲の街でこれを乗り回していたんです」と返すと、「なんで??」と言われた。そりゃそうだ、僕があなたの立場なら同じことを思う。

そんな話を、体育館の駐車場を駆けていくシニアカーを見て思い出した。ちゃんこ号マーク2はどうしているだろうか。もしかしたら今も他の誰かの移動手段として役立っているかもしれない。そうだといいな。中洲の夜の煌めきを、そのヘッドライトに残しながら。

かっちょいいシニアカーを乗り回し
中洲の街に愛されて
たくさんの人を笑顔にした
そんな、母がいた。

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