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超短編|真夜中の彼女

 眠れない。女はもう何度目かもわからない寝返りをうつ。今年初めての猛暑日となった夜だった。二時間のタイマーをセットしていたクーラーが、ブオンと鳴いたのを最後に沈黙した。さすがに3回目をセットするのは面倒だが、手探りで枕もとにあるリモコンを探す。目当てのものがゴトンと落ちて、思わず舌打ちをした。その間、目は空けていない。午前四時。女は、今朝もよくわからない鳥のはじまりの音を聴いた。

 一体いつから。いつから眠れなくなったのだろう。夜シフトが増えたから?飲み会が多かったから?我慢できず昼寝をするから?深夜のテレビ番組が面白いから?漫画を最後まで読まないと気が済まないから?思い当たることはたくさんある。しかし、今女にできることは何も腑に落ちないままただ寝返りをうつことだけであった。特別不便なことは何もない。就業活動は順調で、この前は最終面接だった。対策の為、今月はアルバイトのシフトを減らした。彼氏との喧嘩もなければ、家族が不仲なわけでもない。女が最近不安なことといえば将来設計くらいだが、そんなことは誰だってそうだろう。何年後にいくら必要だとか、どうせ今考えたって結論が出るわけじゃあない。結局、自分は満たされない夜に沈めないだけなのだ。

 女は薄い布団の中で、ふと思い出す。
 『あなたの、人生最大の挫折はなんですか』
 先日の最終面接での質問である。あれは盲点だった、と目を閉じたまま眉間に皺をよせ頭まで布団をかぶる。女は挫折を知らなかった。それは、本人が世間知らずなお嬢様なわけでも、超がつく天才で運動神経抜群だったわけでも、特段要領よく生きてきたからでもない。いうなれば、どんなことも「挫折」と感じたことがなかった。一生懸命勉強した資格試験があと2点合格に届かなかった時も、ダイエットして告白したのに「太ってる方がよかった」といってフラれた時も、間違いないと言われたリレーの代表をケガで外された時もそう。どんなに周りから「がんばったね」と励まされようと「大変だったね」と憐れまれようと、女は何の動揺もしていなかった。ただ「今回はそういうものだった」と受け止めるだけ。無表情無関心というより、ひたすらに達観していたのだ。

 事実、女は人一倍明るく友達が多かった。周りへの感謝と、謙虚な姿勢を忘れない。結果が思うようにいかなくても何事も経験だと学べば、成長が繰り返されることを知っていた。これまでのどんな失敗や辛い出来事も、過ぎてしまえば何か実を結ぶかも。あるいは、時間が忘れさせてくれるかも。そんな風に思う限り、「挫折」などと認識したことはなかったのだ。壁にぶつかれば考えた。周りにも助けてもらった。そして、自分で道を切り開いてきたのだ。だからこそ女には自信があった。自分と、自分を囲む環境に。それは誇りであったが、挫折を知らない今となっては傲りのようにも感じた。

 そうか。もしかしたら今の自分は、「なんとなく生きすぎている」のではないだろうか。女は自問自答を繰り返していた。頭はどんどん冴えてしまうが関係ない。クーラーのリモコンは明日探せばいい。よく眠れていたあの頃、輝いていたかどうかは分からない。しかし、ただ全力で生きていた自分が好きだった。面倒なことも嫌なこともがんばれる自分だから生かされている気がした。今はどうだろう。平穏、安静、波風立たず。将来に不安はあるくせに、どんな不安かすら分からない。毎日、出来るだけお金は使いたくない。少し食べて、たくさん寝るのが唯一の幸せ。一人を求めながら、人に恵まれ、環境に恵まれ、安心を手に入れた。けれど今は自分以外の誰にも「さみしい」と言葉を溢すことができない。言葉をかけられるほど、自分はがんばれていない。今の自分には、孤独から逃れる資格はないのだ。女は少しだけ納得すると、また寝返りをうった。カーテンからは、少し太陽光が漏れているように見えた。

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 クーラーが、ブオンと鳴いた。もう少しで1回目のタイマーが切れる。今日は一段と灰色の夜になるだろう。パソコンをシャットダウンすると、女は目の前から消えた。
 残ったのは真っ黒な画面に、真夜中の彼女がたった一人。あぁ、なんて情けない顔。

(2017年1月作成、2023年4月再編集)

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