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HSPは自己顕示欲を高めるための言葉だと思っている

自称クィア、自称ADHD、自称HSP、今や自称の世の中。定義が定着しないまま言葉を無責任に使えるようになって、ポップ化することで当事者のリアルな声が消されていく現代ならではの問題に直面してる気がする。障害者含むマイノリティ当事者が声を上げているのは、辛さを乗り越えた先の希望を信じてるからで、人と“変わってる“とされていることで本気で悩んで表に出せない人も沢山いる。

一方で、その変わっている部分を見出し自らが消費されにいく構造は珍しくない。本では「美術や音楽に深く感動する」「音や光、においに敏感」など、HSPを語られる際によく挙げられる特徴が示されている。だが、逆の「鈍感」や「感性がない」というような逆HSPならぬ言葉があるとしたら、人々はそれを自称するだろうか。また、本にも挙げられていたように、アメリカ精神医学会が2013年に発行した(改訂版)、DSM5と呼ばれるマニュアルに当てはまるような発達障害や精神疾患リストだったらどうだろうか。HSPは“個人の性格や気質としてのラベリング”にすぎないのだ。

現代はSNSでクールな写真をあげたり、完璧ともいえる生活を見せている人でも、裏では生きづらさを抱えているということをあえて垣間見せ、それを美学と捉える傾向があるように感じる。そういった現代の価値観も重なりHSPブームとの相性を一層高めているのではないだろうか。だからと言って、生きづらさを表に出してはいけないというわけではない。ただ、リアルな当事者が苦しんで表にも公表できない側で、ファッション的に「HSP=変わってる=特別」というような認識で自己プロデュースするSNSの構造にはモヤモヤする。SNSという欲求を満たすためのツールがなければ、自称HSPはいなかったのかも知れない。

最近だとネットでもHSPの無料診断やテストがあるため、気軽に自分自身をラベリングしやすくなった。だが、もしHSPの自覚があってその診断を試みた時にHSPと診断されなかった場合、その人たちの心の拠り所はどこに行くのだろうか。普通であることのショックを受けるのかも知れない。反対に、何かしらの自覚症状がある人にHSPというラベルが付くことで、症状に原因を突き止める作業を怠ることにも繋がる。なぜ敏感なのか、それはHSPだからであると。だが、根本的な解決にはならない。

取り止めのない感想文となってしまったが、結論、ブームは怖い。無自覚にイタイ目に遭ってないか、ありふれた情報が蔓延するSNS社会で、前提を疑い自分で知識を身につけることが大事だと痛感した。


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