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不登校と 何気ない日常と

この春中学生になった次男は、小学生の最後の半年、不登校だった。6年生のはじまりは緊急事態宣言もあり、実質4ヶ月くらいしか行っていない。中学生になり、理想の自分と現実の自分との間で悶々としながら、自分をなだめながら、時々休みながら、何とか学校へ行き始めた。

朝起きて、ご飯を食べて、学校へ行く。多くの子が当たり前にこなしている日常は、我が家では日常ではなく、まだ特別。今はお友達が朝から迎えにきてくれるのに、待たせて待たせて、ギリギリ準備を整えて、ダッシュで学校へ行く。(お友達、ごめんね。)それでも行けた日は、素直に嬉しい。

布団の中にこもって、ゲームと動画に明け暮れた半年。

この子は一体どうなってしまうの?
ちゃんと大人になれるの?
社会に出られるの?

不安でしかなかった。
母親失格だ、子育て失敗だ、と自分を責めても何も変わらないけれど、そんな言葉がずっと自分の中に居座っている。
理由を探したら、結局私の離婚のせいかも、とか、そもそも自己肯定感低いのに私が子育てしたのが間違いなんじゃないの、とか、ほかにも言葉にしてはいけない気持ちがダラダラと出てきてしまう。
そんな時は、無条件にきっと大丈夫!だなんて思うことも出来ない。ただこの子が生きていること、そして体は一応元気で、友達とオンラインゲームをしていることだけでヨシとするしかない。

いくつかの小皿を並べて、好きな食べものをのせて、朝だよ、起きてご飯食べよう、と出勤前に起こす。
子ども時代にずっと布団の中に居たら、どうなってしまうんだろう…という恐怖でいっぱいの私は、どうしても起こして朝ごはんを食べさせたかった。昼夜逆転させたくなかった。
起こすのはだいたい7割成功、3割失敗した。

小学生最後の2か月くらいは市の適応指導教室に在籍していて、毎日勉強や運動をさせてもらえるはずだったけれど、朝になると出かけられないテンションになり、なかなか参加出来なかった。
適応指導教室のやり方や、先生のことは好きで、今も行きたいと言っている。でも不登校真っ盛りの時には、大好きな場所にもなかなか行けなかった。

元気で居てくれたらいいよという心からの願いと、目の前でグダグダしている子にむけて湧いてくる堪えきれない感情とに挟まれて、行ったり来たり、私はどこに向かっているのか。ただ学校に行けないだけなのに。

学校に行けたらいいな、と思うのは、私のエゴかも知れない。何で行かないといけないの、という問いには、いつまでも正しく答えられない。

元気に中学に行く彼を見ると、私は嬉しいし、友達とおしゃべりしながら学校へ行き、勉強してくる姿を見るとホッとする。
彼がどう感じているのか、寄り添う余裕は多分足りていなく、多少寄り添える日と、そうでない日があるのだろう。

この間の雨の日、次男は三男を連れて近所のドラッグストアに買い物に行った。二人にとって、初めてのこと。
二人並んで傘をさしていくのを、気をつけてね、と見送る。何気ない光景のようで、特別。

明るい時間に自分から戸外に出られるなんて。
三男を連れて買い物に行くなんて。
深い闇の中にいると、こんな日が来るとは想像も出来ないけれど。
子どもを信じて待つことは大事なんだろうなあと改めて感じる、そんな出来事。
子育ては何年やっても常に初心者。その子のその日はいつも初めて。

翌日洗濯物を干そうとして、ベタベタのぐちゃぐちゃに放り投げられた三男の傘を見つけた。広げてタオルで雨を拭き取り、お日様に当てようとすると、おや?なんだこの穴は?

あっちもこっちも、小さな穴があいているではないか!!!笑
そうだ、この感じ、忘れてた。長男も、次男も、何本傘を壊してきたことか。しかもド派手に!

新品の傘を持ってドラッグストアに行った三男。どのようにしてこの場所にこんな穴をあけたのか謎すぎる。男子あるある。(我が家だけ?)

長男、次男は、いわゆる育てにくい子だった。子どもらしくのびのびと育てたかった母の想像をどこまでも超えてくるこの子たち。
対応しきれずに、たくさんの芽を摘んでしまった。その結果が今、目の前の長男、次男。

この春小学生になった三男。兄とはじめてのおつかいに行き、母の目の届かないところでのびのびと傘をさしたことだろう。
三男は上の二人よりうんと育てやすいけれど、やはり芽を摘んでしまったと後悔する日もある。

傘の穴を見つめると、長男、次男が幼かった日々を思い出す。傘に穴をあけても怒ったりはしなかったと記憶しているけれど、なぜか胸がチクリとした。
まだ間に合うかな。
この子たちの芽はまだ出てくるよね。
次に出てきた芽は摘まないでいようね。

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