完全であり不完全(私見による📝)
プラスとマイナスを備え、完璧にみえる磁石でも他のプラスとマイナスにつながる。さらにその磁界に過去今未来もない。
磁石という陰陽を備えた完全は、完全でありながら不完全であった。つながりをもつ事こそが存在の証明であり、たとえば月しかなければ月は、月という自我さえもたないであろうと思われる。プラスはマイナスとつながることでプラスであることを自覚し、逆もしかり。自我のない世界は幻である。
ゆえに世界は拡大していくものだとしたら。
それを踏まえたうえで、時間の流れもスケールを大きくすれば、たとえば前世とやらの記憶をCDのようなものだとしたら、無論曲の流れは転生のたびに川のようになっていくだろうし、その時、その時に感じたものが01「●●」,02「〇●」、03「⦿」、一回ごとにテーマとした曲調となって再生することはできるだろう。むしろ、事あるたびにささやかなBGMとして、あるいは列記とした音楽となって今も流れているかもしれないのだ。と
、今のところはそう一段落した。
未知ほど惹かれるものはないが、もし過去今未来のないすべてが完全でありながら、不完全のまま拡大するとして、その世界をのちに知ることになったとき、なんて自分は無駄なことをしたんだろう、と夢中になった時間を惜しむだろうか。
今を生きる時間は自由ではある、が仮に来世に今の自分をみせるとしたら相当な黒歴史を暴露することになる、一方で黒ばかりでもないのが現実。
不都合な真実を知ることになるのは否定できないし、まだ人生の若輩者だから何が起こるかもわからない。否定しようのない自分がいることだけは事実。 言葉を上手く出せず、他人には「はい」「いいえ」、決められた言葉以上は口さえきけなかった。アイデンティティーの所在を失い、気が付けばこの道にいた。後悔していない、むしろ最善だと思っている。そんな人生の途中。ようやく言葉を口に出せたと思えば自己防衛が陰転して言葉の刃物で傷つけたこともあった。これも飲み込んでいくしかない。誇るどころか真逆の立ち位置にいた。だからあったとして、前世もあまり期待はしていない。一生懸命生きたのならそれでいいとは思っている。
今は未知に関心があるのは確かだが、一方で説明のしようがなくなってきた感じがある。確かに、表があるように裏もある。天界があるなら地獄界もあるのだろう。天使がいるなら悪魔もいて、今も人間の感情を引っ張っているのかもしれない。あの世にいけることもあれば、あの世は決して天国ではなく、地獄かもしれない。今もさまよっている地縛霊になるかもしれない。祝いもあれば呪いもある。心は身体として3次元にありながら、2次元(分離)と4次元(統合)の間を行き来している、と夢想すれば、じゃあ5次元とはなんなんだとは思う。統合を超えたものなのか、あるいは自我を超えた意識なのか。
自我でありながら自我ではない、すべての存在が個性としてあるグラデーションのなかに滞在するのか。
それは姿形が3次元として超えた先にあるもう一つの現実なのかもしれない。そして自分はこれを感知する能力が低い、具体的に出せない、とでも
しかし身近でいえば、未来さえ定義できるとすれば、これは選択によってはいくつもの平行世界に向かうことになってしまうのか。まるで「ひぐらしのなく頃に」のごとく。
もしも過去今未来が同一に存在するとすれば、現実的にいえばこの未来というのは今の「つい」選びがちな選択によって「ほぼ」決まることもあれば、そこに衝撃が加わる確率もないとはいえない。出来事に波があるのは当たり前で、当たり前とは不変ではなく移ろっていくものだ。「つい」選びがちな行動が極まれば、それは「癖」となり、これが陰転すれば「怠惰」「カルマ」、陽転すれば「向上」「昇華」されていくのは、当たり前を覆す流れとしては十分ではとも。受動的か、能動的か、それさえあずかり知らぬ無意識で眠っているか。
いづれも未来に無関係ではない。確定した過去は今の結果であり、また今の結果さえ未来の姿であるなら、この同一上にある物理的な時間は変えられない、地層のように変わらない、掘れば一発で客観はできるだろう。
むしろ変えられるものはその時間に存在する「意識」か。平行世界というのは意識上で変容する世界なのか・・・。
過去は変えられないが、意識を変えることで過去を変えられる、救うことができるというのはまるでインナーチャイルドの癒し、心理的アプローチによるヒーリングだとも思う。存在した彼らが実際に救われるのではなく、彼彼女を体験した精神が、その時を思い出して救われていると・・・。紛うことなき共にある精神だから、「今ここ」に臨場感をもって現実として、3次元としても現れるのだろうか。
ただそれがたとえば、緑ではない、オリーブ色だ、確実に自分だ、といえる証明。その境界線が薄いほど、共感というより、他者でも意識がなだれ込んでくるのかもしれない。色にも濃度があり、濃度が低いほど溶けやすいのかもしれない。逆にいえば、だからこそ色がわかる、客観的にも精査しやすいのだろうか。